松山ブンカ・ラボ

JOURNAL

特集記事

2020.09.29 UP
VOL.
017
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【特別寄稿】歴史的苦境における日本の劇場(1)

徳永高志(NPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ理事長)

  • 徳永高志氏(NPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ理事長)による「歴史的苦境における日本の劇場」と題したジャーナルを2回に分けて掲載します。2020年7月29日に吉祥寺シアターで開催された「吉祥寺からっぽの劇場祭」のオンラインシンポジウム「歴史的苦境における劇場」に徳永氏が出演した際に、歴史的観点から劇場がどのようにして苦難を乗り越えてきたのかをお話しされました。このシンポジウムの内容が今回のジャーナルに執筆いただくきっかけとなりました。また2020年9月11日には内閣官房のホームページでは感染防止対策と経済社会活動の両立のため感染防止対策を徹底すれば、11月末まで劇場に入ることができる人数の上限や収容率を緩和することを発表しました。新型コロナウィルスによる劇場の対応も日々変化しています。徳永氏の原稿に書かれている過去から現在に至る劇場の歴史を知ることで、これから私たちが劇場とどのように向き合っていくのかを考えるきっかけになることでしょう。

    (松山ブンカ・ラボ 松宮俊文)

  • 1、はじめに

    舞台芸術は未曾有の危機である。

    阪神淡路や東日本の大震災のときは、演じることで皆を励まし、舞台芸術の社会的意義を確認することできたし、異なる地域やジャンルとの相互支援があったが、今回はそれができず、事態収束の出口も見えない。2月末以降、すべての舞台芸術はストップないし縮小した。一ヶ月に、一オーケストラで約8000万円、歌舞伎座や宝塚大劇場では、それぞれ約10億円の莫大な損失が積み重なっているし、7月前後からの公演再開後も収入は半分以下に落ち込んでいる。これまで脈々と積み重ねられてきた創造的な営為が半年余りで壊滅しかねない状況である。

    本稿では、現状をにらみつつ、歴史的に劇場と舞台芸術にどのような苦境が襲ったのか、概観したい[1]

  • 2、近世の劇場‐‐「悪所」としての劇場

    実は、150年間余りの日本の近代において、劇場はいくども存亡の危機に晒されてきた。

    そもそも、その前の時代すなわち近世において、劇場と芸能者は、厳しい規制の下におかれていた。

    芸能にたずさわる者はいわゆる士農工商とは異なる扱いを受けていた。初代市川團十郎は、18世紀初頭、穢多身分の頭であった弾左衛門が演劇興行を取り仕切っているのに抵抗して奉行所に訴え出て、一部認められた。二代目市川団十郎は裁判の経過を一巻にまとめて、「勝扇子(かちおうぎ)」と名付けて家宝としたという。一方、18世紀後半、四代目の市川團十郎は、文字通り千両を稼ぐ「千両役者」であったのに「錦着て畳の上の乞食かな」との句を詠み、依然として低い身分であると嘆いたと伝えられる。

    この時代は、すべての人々がいずれかの身分に属し、士農工商のなかでも細かい階層があったので、芸能者だけが特別であったわけではなく、また芸能者のなかでもそれぞれが多様な扱いを受けていた。大雑把な言い方をすれば、士農工商以外の役(今でいう仕事とそれにともなう税金)で定住しない人々の多くは役者も含めて雑種賤民という扱いを受けていた。幕藩体制下における芸能者の頂点に位置し武士に準じる身分であったといわれている幕府お抱え能役者ですら、扶持米(=給与)は「猿楽扶持」とされ最下等の米を支給されたうえに観世大夫は浅草新堀川の「常浚」(=清掃)の役を負担しなくてはならなかった。「武士の礼楽」の担い手がこの有様であった。

    それでも、人々に、少しずつ、歌舞伎など演劇の楽しみが定着していった。これに対し幕府は、1670年ごろに、大劇場は江戸四座(のちに絵島生島事件を経て江戸三座)に限定したほか、天保の改革時の1834年に猿若町(現在の浅草6丁目)に三座のほか人形浄瑠璃を柵で囲い込み、江戸中心部から大劇場を放逐した。ちょうどそのころ、1835年に創建された金毘羅大芝居においては、正面の少し小さな入口をネズミ木戸といい、農工商身分の者が入り、向かって右(上手側)の入り口が劇場主である金毘羅宮関係者の入り口であったと伝えられる(写真1)。劇場構造そのものが身分制を反映したものであったのである。

    写真1:金毘羅大芝居(香川県琴平町)

    それでも歌舞伎は人気が衰えず、新宿あたりに家があった場合、家族で三食の弁当を持って日が昇る前に出立し、江戸の市中を縦断して午前中に猿若町の芝居小屋に到着、日没前まで楽しんで、夜おそくに帰宅する、文字通り一日がかりのイベントであった。歌舞伎に熱狂する女子も多く、なかには歌舞伎役者にしたがい家庭を捨てて出奔する者がおり、幕府は、歌舞伎役者がそれとすぐにわかるように奇矯な衣装と笠を身に着けること、身につける刀は必ず竹光とすること、決まった居住地から出ないことを、布達している。この際も歌舞伎役者は「川原もの」または類似した呼称で呼ばれていた[2]

    劇場は、演劇を身分を超えた人々がともに観て楽しむという両義的な存在であった。しかも、しばしば演目は武家社会の批判を含むものであった。だからこそ、芝居小屋を一か所に集め管理監督したのである。大坂においては道頓堀五座、京都においては七座がそれにあたるが、江戸ほど厳しい統制ではなかったと推測される。

    いずれにしても、低い身分の役者が武家社会批判を含む芝居を上演する芝居小屋(=劇場)は遊郭と並んで「悪所」と認識されていた[3]

     

  • 3、近代の劇場―火事・病・戦争

    1)火事との闘い

    明治維新後、役者身分とでもいうべきものは急速に解体に向かう。基本的には1871(明治4)年の賤称廃止令(いわゆる解放令)で身分の平準化がすすみ、他の業種と同じように鑑札(=許認可)と課税がなされるようになる。

    ここで、新たな脅威となったのは、劇場を頻々と襲う火事であった。

    当時の芝居小屋は木造であり、小さな座布団一枚で一人分とカウントされたうえに立ち見を認めたために、小さな劇場でも1000人を超える観客が入場した。照明は蝋燭やランプ、しかも客は煙草盆(=灰皿)や冬は火鉢を抱えていた。火が出る要素は多数あり、火がつくとあっという間に大火災となった。1876(明治9)年の1月の大阪道頓堀の若太夫芝居(当時の大阪で劇場のことを「芝居」と呼んだ)の出火は120軒を類焼する大火災となり、翌2月、同じく道頓堀の筑後芝居隣宅の火災はすぐに芝居小屋に燃え移り、中の芝居、角の芝居にも類焼、計648軒が焼失した。ついで4月の竹田芝居の火災では56人の死者を出した。竹田芝居はこの火災をきっかけに弁天座と改称し、のちの1900年に二十五回忌を盛大におこなっている。

    七座あった京都河原町周辺はたび重なる劇場火災で、19世紀末には北座(1894年に四条通拡幅で消滅)と南座(改築されて現存)のわずか2軒になった。

    後述する伝染病の恐怖と相まって、1876~1881年の大阪の新聞には「劇場廃止論」や「劇場改築論」が次々と掲載された。その趣旨は、劇場は害悪であるから不要であるという意見と、劇場の出入り口の拡大など構造の変化が必須であるとの意見が主であった。1878(明治11年)、東京府知事楠本正隆が「演劇の業たるや尋常の人にあらず。俳優の人たるや尋常の人にあらず。故にその所在の地は、ややもすれば風俗の淫靡をいたし、人心の浮蕩を来しやすし」(一部、仮名に変換)[4]との意見を述べるなど、江戸時代と変わらぬ認識もあったから、劇場の忌避は苛烈になった。

    それでも、1890年代以降、劇場と演劇を希求する人々は急速に拡大し、1920年代には全国で8000を超える劇場が存在した。現在、全国公立文化施設協会に所属している施設が1300余りであるから、その多さがわかる。木造であることは変わりなかったが、照明は電気になり、非常用通路や扉を増やし防火水を用意するなど徐々に火事は減少した。1911年に開場した帝国劇場は、日本で二番目の本格的な鉄筋コンクリート造りの洋風劇場で、舞台と客席を仕切る巨大な防火幕を備えていた(写真2)

    写真2:帝国劇場防火幕(『東京風景』〈小川一眞出版部、1911年〉)

    劇場の一応の防火は、これで一段落したかに見えたが、1920年代の活動写真(=映画)の爆発的人気にともなって新たな脅威が訪れる。可燃性フィルムである。

    1950年以前の映画用フィルムは、ナイトレートフィルムと呼ばれ、摂氏40度程度で自然発火する。映写機のハロゲンランプによる熱射や保存用のフィルム缶内は、容易にこの温度に達した。実際に、1918年、松山市の映画館松山館(1913年開場)からの出火は、伊予鉄道本社や伊予鉄松山駅(現在の松山市駅)を類焼する大火となった。戦前松山での最大の火事と伝えられている。1930年には、映画上映をおこなう劇場には六面を厚さ10センチのコンクリートで覆われた映写室を設けることが義務となった。多くの芝居小屋は二階に映写室を設けたが、コンクリートの重さだけで3トンに達するために建物が耐えられず、壁のなかのコンクリートを抜いて軽量化するという脱法的対処で切り抜け、地域の警察署もそれを黙認したという。1900年前後に創建されたと推測できる喜楽座(奈良県宇陀市、現在、再興途上)には今も映写室が残っている(写真3)

    戦前の劇場にはもう一つの脅威があった。伝染病である。

     

    (2回目に続く)

    写真3:喜楽座映写室外観

    写真3:喜楽座映写室内部

    [1] 近代日本の劇場史や本稿に関わる劇場の苦境に関して、とくに註記していないものに関しては、拙著『芝居小屋の二十世紀』(雄山閣、1999年)および『劇場と演劇の文化経済学』(芙蓉書房出版、2000年)を参照されたい。

    [2] 近世史料研究会編『江戸町触集成』第21巻(塙書房、2011年)。

    [3] 守屋 毅『元禄文化 遊芸・悪所・芝居』(講談社学術文庫、2011年〈原本は1987年〉)、第2章1節「「悪所」という言葉」を参照。

    [4] 「東京府劇場制限の伺」(『日本近代思想体系 18 芸能』〈岩波書店、1988年〉所収)。

  • 執筆者プロフィール

    徳永高志

    1958年岡山市生まれ。博士(文化政策学)。日本近代史研究を礎に、19世紀末に成立した地域の芝居小屋研究に取り組み、文化施設の歴史や運営にも関心を持つ。松山東雲女子大学教員を経て、2004年に、アートと地域の中間支援を目指すNPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ(通称QaCoA)を設立。現在、茅野市民館コアアドバイザー。内子座、町立久万美術館、淡路人形座のほか、伊予市、神戸市の文化施設計画や文化政策にもかかわる。慶應義塾大学大学院アートマネジメントコース非常勤講師。著書に、『芝居小屋の二十世紀』(1999年、雄山閣)、『公共文化施設の歴史と展望』(2010年、晃洋書房)、『内子座』(2016年、学芸出版社)など。

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