松山ブンカ・ラボ

JOURNAL

特集記事

2021.09.26 UP
VOL.
025
column
カコアの歩み ――「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」―― 第一回 カコア誕生

徳永高志(NPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ理事長)

  • NPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ(以下「カコア」という)理事長の徳永高志氏による「カコアの歩み ――「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」――」と題した寄稿を今年度4回に分けて掲載します。

    カコアはNPO法人を立ち上げ、2004年から現在に至るまで、美術館や公共ホールとは異なる手法で市民が文化芸術に触れるきっかけや、ネットワークを作るなどして、松山市のアートマネジメント分野を牽引してきました。カコアがこれまでにやってきたことは松山市の文化芸術の歴史を語るうえで欠かすことのできない重要な活動です。

    第1回目となる今回はカコアが誕生する前の愛媛県松山市の文化芸術に関する歴史を踏まえ、カコアの初期にスポットライトを当て、その活動を徳永氏が振り返っていきます。
    (松山ブンカ・ラボ 松宮俊文)

  • 1、カコア以前:松山の芸術文化環境

    NPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ(略称:カコア、以下、「カコア」と記す)を結成して17年になる。なぜ結成したのか、どのような思いで歩んできたのか、そしてこれからどう歩むのか、20年に向けて少し立ち止まって考えてみたい[1]

    地域の組織であるカコア設立を語る前提として松山の芸術文化環境を概観してみよう。
    特徴的な点の第一は、短詩系文学であろう。
    松山市は、江戸時代より俳諧が盛んで、近代以降は正岡子規や高浜虚子を生んだ「俳都」として知られ、現在の松山市の政策「ことばのちから事業」に伝統を引き継いでいる。
    第二は、能楽や人形浄瑠璃などの伝統芸能と、それに連なる演劇映画やコンテンポラリーダンスの系譜である。江戸時代から領主久松氏の庇護のもと能楽が振興され、それが武士の礼楽であったにも関わらず一部の町人も観覧を許された。明治維新後、武家の崩壊に伴って全国的に能楽が廃れ消滅の危機に瀕するなかで、高浜虚子の父と兄の池内信夫・信嘉は私財をなげうって雑誌「能楽」を発行、能の再興に尽くしたし夏目漱石も高く評価していた。
    幕末に淡路から伝播した人形浄瑠璃も盛んで三津の伊予源之丞座にその名残がある。時代が下って20世紀以降の演劇と映画の世界では井上正夫、伊丹万作・十三親子や伊藤大輔という名優、名監督を輩出した。
    コンテンポラリーダンスに関しては、1950年に愛媛大学内に愛媛現代舞踊研究会が結成され、1989年には愛媛現代舞踊協会が結成された。
    第三は、あまり知られていないが、現代美術の組織的な活動である。1965年以降、愛媛現代美術家集団の岡本鉄四郎、三輪田俊介、工藤省二らが活躍し、1969年、1970年の野外展では森堯茂や坪内晃幸が先鋭的な作品を出品した。1970年には大街道を白塗りの裸の男が駆け抜けるというパフォーマンスもおこなわれた。この間、1965年には松山市民会館が、1970年代には愛媛県立美術館(現愛媛県美術館)が、ともに熱心な市民運動の結果、誕生した[2]
    しかし、こうした豊かで多様な果実が、現在まで地域で受け継がれてきたとは言い難い。
    短詩系文学はともかくとして、能楽では金沢市に大きく後れを取り、県による1960年代以降の事実上の県立高校演劇活動抑制により演劇活動も停滞した。後述する一部のダンス事業を別にすれば、松山市民会館やコミュニティセンターキャメリアホールは貸館に終始し地域の文化的蓄積を発展させることに留意しなかった。
    現代美術に関して、愛媛県立美術館が企画展として取り上げることはほとんどなく、後継の愛媛県美術館も系統的に取り上げたのは2020年の「1970⇔2020 未来へ 愛媛県立美術館設立50周年記念展」[3]が最初という状況があり、町立久万美術館が先に名を挙げた作家たちの企画展を開催した程度であった。

  • 2-1、トヨタアートマネジメント講座からミーツアートへ(アートNPOの誕生)

    こうした状況に違和感を持つメンバーが、カコア結成を目指す端緒となったのが、1997年7月のトヨタアートマネジメント講座「アートワールド探検講座―アートの道も一歩から」であった。トヨタアートマネジメント講座(通称TAM)は、1996年6月から2004年3月まで全国32地域で53回開催され、延べ1万人が参加したもので、松山はその第2回であった[4]。TAMの開催は、1980年以降の松山のアートシーンで最大の事件であったと言える。公の場でアートマネジメントが語られた最初であり、県内の美術館、行政、大学、そして在野の関係者が垣根を超えて議論し、地中美術館館長の秋元雄二氏や現代美術家大竹伸朗氏らと自由闊達に交流する機会となった。
    同じく1997年には松山市施設管理公社が「松山ダンスウェーブ」を開始した。これは水戸芸術館などと連携したコンテンポラリーダンス振興事業であったが、TAMの松山開催を意識したものであったし、担当者はTAM参加者でもあった。松山ダンスウェーブがドイツ・フライブルク市から招いたアマンダ・ミラーのワークショップをきっかけにyummydanceが結成され、現在までダンスカンパニーとして国際的な活動を継続している。これ以降、ダンススタジオMOGAの活動など、確実に松山のダンスシーンは確実に活性化した。
    TAM参加者には、「この成果を雲散霧消させず、次のステップにつなげたい」という共通の思いがあった。そこで始まったのが「ミーツアーツミーティング」であった。「ミーツアーツミーティング」では、小暮宜雄氏、津村卓氏らを招聘して勉強会を開催したり、近県で開催されたダムタイプやコンドルズの公演を鑑賞するツアーの実施など、地域の人々にコンテンポラリーアートへの関心を喚起し続けた。
    こうした活動の継続のなかで、2002年ころよりNPOの必要性の議論が始まった。1998年に特定非営利活動法人促進法が制定され、該当する活動に「学術、文化、芸術又はスポーツの振興を図る活動」があったことから、2000年ころより各地でアートNPOが誕生していたことも追い風になった。
    地域のアーティストや行政関係者や文化施設関係者、研究者を交えた意見交換の結果、中間支援を主たる目的とする組織の結成が目指されることになった。議論の過程で、地域とくに松山市の特性をどのように考えるかが大きなテーマとなった。短詩系文学の振興以外に確たる文化政策を持たない地域において、公的助成は「文化協会」等を通してアマチュア団体に広く薄くが当たり前という現状で、先端的で多様なアートに触れるチャンスが少ないこと、ゆえに、鑑賞するアートの質を問い直すことが少なく、いわば与えられたものをそのままアートとして受容するのが日常的になっていることなどが指摘された。一方、地域で暮らすアーティストは大都市・海外で評価されることを活動の目標にして地域住民への創作活動の還元が十分におこなわれていないきらいがあるとの意見もあり、これらの点が地域のアート NPOの大きな課題であるとの認識に至った。そこで名称にクォリティとコミュニケーションを入れ、略称は、その頭文字を援用して意味の分からない言葉「QaCoA=カコア」とすることになった。相手に問うてもらいメンバーが意味を説明することにより節理意図を知らせ広げようとの思いもあった。
    アーティストの参画についても議論があった。アーティストをメンバーにすると、同一分野の他のアーティストと事業契約を結びにくくなる、周囲から参加アーティストの自己表現の場として認識され中間支援に支障が出る、との意見があった。一方、職業としてのアーティストが成立しにくい松山という規模の都市で、アーティストを拒むと貴重な人材が活かせなくなる、また、そのジャンルの情報を得られにくくなる、といった意見も出され、結局、「アーティストの自己表現の場ではないこと」「自分の嗜好だけで事業をおこなわないこと」を確認して、参画してもらうこととなった。振り返ってみれば、結成後数年は、参加希望者に理事が面接し趣旨を確認してNPO社員になるのが通例であった。それも、中間支援という当時はわかりづらい活動ゆえのことでもあった。
    2003年ころから活動が活発化し、2004年8月に法人認可された。

  • 2-2、トヨタアートマネジメント講座からミーツアートへ(三津浜を拠点に活動)

    カコアにとっての最初の事業は、松山市三津浜に拠点をかまえたことと、その拠点を中心にアートプロジェクトをおこなったことであった。
    港町三津浜地区(または「三津」、ここでは固有名詞以外は「三津浜」と表記)は、近代以降、松山の玄関口として繫栄し、戦前は魚市場、花街、競馬場等を持つ都市であった。1930年代は、港のみならず、海上飛行場として大阪からの航空機を迎えた。現在も18世紀以降の木造建築がそこここに残り、繁栄の一端を知ることができるが、2003年当時は急速な高齢化とともに空き家が増えていた。縁あってこのまちに残る1912年創建の蔵(旧三津浜銀行〈現在の伊予銀行〉)を借りることができたので、それを「アート蔵」と名付け、活動拠点とした。決して現代的な機能を備えていたわけではなかったが、作品展示が可能であったこと、上映やパフォーマンス時には100名近い座席を確保できたこと、そして何よりサイトスペシフィックであったことは、プラスに作用した。三津のまちづくりグループ「平成船手組」の協力を得られたのも大きな力になった。

    写真1:2004年のアート蔵

    写真2:2004年ころの三津での活動概念図

    2004年2月に地域の人々と大掃除を実施、3月に「蔵出しアート」がスタートした。事業実施にあたって留意した点は、蔵を活かす、三津浜というまちを意識する、一過性のイベントに終わらせないという点であり、具体的には、①地元アーティストのダンスパフォーマンス、②地元作家による公開制作と展示、③地域外の第一線作家の招聘(このときは筧昌也監督「美女缶」の上映)、④来場者同士の交流(このときはミニカフェの開催)であった。このスタイルは、その後の「アート蔵」事業でおおむね踏襲されることになる。
    蔵出しアートは、同年11月の「Ⅲ」まで継続した。
    2005年3月には、秋元雄二氏(地中美術館館長)を招いて、地元アート関係者とカコア設立記念シンポジウム「地域がアートに恋をする」を開催した。アートをまちづくりの道具にしないこと、アートの飲み込み難さにこそ多様なコミュニケーションの可能性があること、そして、そこにある多くの困難を受け止めることが中間支援NPOの役割であることを確認した。

    写真3:設立記念シンポジウム「地域がアートに恋をする」(2005年)

    カコアにとって、大きな転機となったのが「アサヒアートフェスティバル」(以下、AAFと記述)への参加であった。
    3回の「蔵出しアート」実施の結果、アートの質、地域社会への意義などの点で、反省材料が生まれていた。その折に、接したのがアサヒアートフェスティバル公募の知らせであった。
    アサヒアートフェスティバルは、当時、メセナ活動に積極的であった株式会社アサヒビールがアサヒビール芸術文化振興財団とともに地域の先進的なアートプロジェクトを支援するもので、2002年より始まった。当初は主催者が任意に選んだまたは企画したプロジェクトのみであったが、2005年から公募形式が導入されたのである[5]
    我々は、背伸びを承知で応募し、さいわい採択された。
    三津浜には、500年前から続くといわれる渡し舟「三津の渡し」(正式名称「松山市道高浜二号線」)があり、それになぞらえて「三津浜アートの渡し」をメインテーマとした。「渡し」と「私」をかけて、公と私、人と地域とアート、地域と地域を「渡す」ことを目指した。それまでの事業に加えて、蔵から飛び出し地域を面として展開すること、次世代を担う子供を対象とした事業とすること、自己満足に終わらないよう自己評価をおこなうことなどを心がけた。愛媛県内の実力あるアーティストを紹介するとともに京都と東京から劇団を招聘したほか、人形浄瑠璃「伊予源之丞座」に着目しコンテンポラリーダンスとのコラボレーションを企画した。
    また、瀬村製材所作業場(1945年創建)、西性寺、木村邸(1879年創建)など、地域の核となる施設を会場とすることができた。
    何より、確かな手ごたえを感じたのが、同じ志を持つ他地域の団体との交流であった。その後、「混浴温泉世界」などの大規模なアートプロジェクトを完遂することになる別府プロジェクトの山出淳也氏が、AAF参加団体との交流のなかで「はじめて自分たちが歩みをつづけても良いとの手ごたえを得た」と語ったように、カコアにとっても、継続と発展の大きなモチベーションとなった。
    カコア単体では、四国のネットワークづくりや三津浜などをテーマに2008年まで毎年参加し、2014年、2015年にも再度参加した。

    写真4:アート蔵での伊予源之丞座公演(2004年)

    写真5:三津の渡しと劇団「トリのマーク」のさかなおとこ(2005年)

    写真6:2006年のAAF参加プログラム

    写真7:太田三郎氏とのワークショップチラシ(2006年)

  • 2-3、トヨタアートマネジメント講座からミーツアートへ(連続公開講座の開催)

    写真8:秋元雄二氏を招いたミーツアーツオープンカレッジ第2回

    AAFに関連して、アートイベントだけではなく、2006年12月から2007年2月にかけて連続公開講座「出前AAF学校・ミーツアーツオープンカレッジ」も実施した。「AAF学校」とは、アサヒアートフェスティバル実行委員会主催で2006年4月から開催されたもので、アートの価値とアートプロジェクトのマネジメントに関して互いに学びあう学校であった。カコアは、AAF学校の趣旨に賛同しつつ、独自に講座を組み、AAFに何人かの講師派遣を依頼した。
    TAM松山の講師でもあった秋元雄二氏をはじめ、「横浜トリエンナーレ2005」のディレクター芹沢高志氏など多彩な講師陣のもと、毎回、ディスカッションを含む4時間に及ぶ講座を5回にわたって積みかさね、最後にアサヒビール芸術文化振興財団の加藤種男専務理事を招いてシンポジウムを開催した。受講者は延べ200名を超えたほか、講座の内容は、えひめCATVを通して中予地域に放送された。受講者のなかには、のちにNPO法人シアターネットワークえひめを立ち上げた主要メンバーも含まれていた。
    カコア立ち上げの主旨の一つであったアートの質と価値を深めるための学びあいが、実を結んだといえよう。

  • 2-4、トヨタアートマネジメント講座からミーツアートへ(様々なアートプロジェクトへの関り)

    写真9:シンポジウム「黒船襲来」(2006年)

    この間、AAF以外にいくつものプロジェクトに関わった。2005年、松山市と姉妹都市のドイツ・フライブルク市との芸術交流(「恋するアートトランク」於愛媛県美術館)や翌2006年のフライブルク市での愛媛県在住アーティストの展覧会開催支援、同年、八幡浜市民ギャラリー「現代美術のABC」展における現代美術家太田三郎氏のワークショップ「エアメールプレインをつくろう」実現を主導するなど、枚挙にいとまがないが、なかでも異色のプロジェクトは、岡本太郎「明日の神話」修復をめぐる「事件」であった。
    「明日の神話」は縦5.5m、横30mの巨大な壁画で岡本太郎が描いた最大の作品であり、第五福竜丸が描かれ、当時は「広島と長崎」という副題がつけられるなど反核平和を希求する社会性の強いものであった。メキシコオリンピックを機に計画された高層ホテルに展示されることになっており1969年に完成したが、ホテル建設は中止され公開されることなく行方不明になっていた。それが2003年にメキシコで発見されたのである。状態は極めて悪く、修復は急を要した。たまたま、太郎の養女岡本敏子氏と東温市に本社を置く㈱サカワの社長佐川寿々子氏が懇意であったことから、サカワが、1000㎡の作業場と黒板・ガラス・建材の技術を提供することになったのである。100個以上の作品断片が持ち込まれ、修復家吉村絵美留氏の監修で2005年7月から修復が始まり2006年6月に完成した[6](現在は渋谷駅コンコースに展示、NPO法人「明日の神話保全継承機構」が維持管理)。

    これら一連の出来事は、大雑把に言えば岡本太郎記念現代芸術振興財団の事業であり、カコアとは直接関係のないことであったが、愛媛県に20世紀を代表する美術作品が持ち込まれ修復されている事実を伝え、考察し、できれば作品に触れる機会を作りたいとの思いは強まった。修復に関する情報は財団が一元化してはいたが、カコアの働きかけのみならず色々な活動が重なって、東温市の小学生や抽選で選ばれた市民が見学する機会が生まれるなど、公開に一定の寄与をした。また、2006年3月には、カコア主催で、川崎市岡本太郎美術館の村田慶之輔館長を招いて「黒船襲来」と題したシンポジウムを開催した。愛媛という地域のアートシーンにおいて「明日の神話」は、まさに「黒船」であった。
    一方、費やした労力に対し、障壁があまりに高く、作品・所有者・地域との関係性にどのように介在すればいいのか課題が残ったが、これは、大なり小なりアートと地域、アートとアーティスト、アーティストと地域の中間支援を目指す組織が抱える宿命的な問題であることも自覚することにいたった。
    AAF参加に一区切りがつくことになる2008年、それまでの活動でも印象的なことがらがあった。それは、三津駅解体計画とそれにまつわるアートプロジェクトである。

    写真10:カコアプレス第1号(2007年)

  • 注釈

    [1] とくに註記しない事項に関しては関係者のインタビューや当時の記録による。

    [2] 井口貢編著,松本茂章, 古池嘉和, 徳永高志著『地域の自律的蘇生と文化政策の役割』(学文社2011年)第2部第1章徳永執筆部分。

    [3] 杉山はるか「開催報告 1970⇔2020 未来へ 愛媛県立美術館設立50周年記念展」(『愛媛県美術館研究紀要 第18号』〈2020年3月、愛媛県美術館〉)

    [4] TAM運営委員会企画編集『トヨタアートマネジメント講座の軌跡 1996‐2004』(2004年、トヨタ自動車株式会社広報部社会文化広報室)

    [5] https://www.asahigroup-holdings.com/csr/philanthropy/art-cul/artfes.html

    [6] 修復そのものの過程に関しては吉村絵美留『岡本太郎「明日の神話」修復960日間の記録』(青春出版社、2006年)。

  • 執筆者プロフィール

    徳永高志

    1958年岡山市生まれ。博士(文化政策学)。日本近代史研究を礎に、19世紀末に成立した地域の芝居小屋研究に取り組み、文化施設の歴史や運営にも関心を持つ。松山東雲女子大学教員を経て、2004年に、アートと地域の中間支援を目指すNPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ(通称QaCoA)を設立。現在、茅野市民館コアアドバイザー。内子座、町立久万美術館、淡路人形座のほか、伊予市、神戸市の文化施設計画や文化政策にもかかわる。慶應義塾大学大学院アートマネジメントコース非常勤講師。著書に、『芝居小屋の二十世紀』(1999年、雄山閣)、『公共文化施設の歴史と展望』(2010年、晃洋書房)、『内子座』(2016年、学芸出版社)など。

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