松山市文化創造支援協議会

JOURNAL

特集記事

2021.10.22 UP
VOL.
026
column
カコアの歩み ――「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」―― 第二回 「市民」との協働と相剋

徳永高志(NPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ理事長)

  • NPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ(以下「カコア」という)理事長の徳永高志氏による「カコアの歩み ――「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」――」と題した寄稿を今年度4回に分けて掲載します。

    カコアはNPO法人を立ち上げ、2004年から現在に至るまで、美術館や公共ホールとは異なる手法で市民が文化芸術に触れるきっかけや、ネットワークを作るなどして、松山市のアートマネジメント分野を牽引してきました。カコアがこれまでにやってきたことは松山市の文化芸術の歴史を語るうえで欠かすことのできない重要な活動です。

    第2回目となる今回は2008年の三津駅舎に関するプロジェクトから、アートプラットフォームえひめ(APE)、カコア東京、道後オンセナートを経て、現在に至るまでの活動を徳永氏が振り返っていきます。
    (松山ブンカ・ラボ 松宮俊文)

  • 1)三津駅舎解体をめぐるプロジェクト

    伊予鉄道三津駅は、1888年に古町駅松山市駅とともに、四国で最初に開設された鉄道駅である。最初の駅舎は1930年前後まであったと考えられていて、その後改築されたアールヌーボー風の駅舎は長いあいだ三津の人々に親しまれていた。

    しかし、地域の高齢者の一部からは、老朽化とともに、駅をはさんで東西の往来ができないこと、駅前に自転車が駐輪され通行の妨げになっているとともにバスロータリーがなくバスの乗り入れが困難であったこと、バリアフリーではないこと、などが問題化し、2000年ころから建て替えが取りざたされていた。

    これに対して、近隣の比較的若い住民を中心に、三津駅の歴史的価値を重んじ保存しようとする機運が高まり署名活動がおこった。
    2005年6月、伊予鉄道と松山市、それに住民の一部が加わり、「三津駅舎検討ワークショップ」が発足し、同年12月には現行駅舎のイメージを残して改築という方向が打ち出された。その後、2007年5月に伊予鉄側の改築プランが示されるに至った。一方、旧駅舎保存を求める署名は2500名を超え、地域で意見が割れる事態となっていった。カコアの三津での活動を支えてくれていた平成船手組は、静観ないし改築に賛成という姿勢であった。ちょうど「三津浜まちづくり協議会」結成準備会が開かれ(カコアメンバーも出席していた)、三津浜地区全体の地域自治が検討されていた時期でもあった。

    カコアメンバーでの議論は、ともすれば旧駅舎保存に傾きつつも、地域の対立に与するのはカコアの設立主旨にあわないとの意見が大勢を占め、アートの力で、三津駅舎(のイメージ)を地域に残すプロジェクトの実施を決めた。

    三津駅解体直前

    「みつはま永遠回帰」というタイトルで、アニメーション作家の山内知江子をメインアーティストとし、「アサヒアートフェスティバル(以下AAFと略記)2008」に参加、映像制作や公募写真展やワークショップを実施することになった。山内作品「三津駅舎想送プロジェクト」は、「長い間建っていた駅舎を、人々の思い出に残すことができるように、特に駅舎の使用頻度が高く、駅舎が身近な地元の人々の心に届くよう、地域の人の生活風景なども駅舎と重ね合わせてモチーフにしながら映像詩アニメーション(約15分~20分)を制作する」というもので、そのプロジェクトの一つとしての「三津駅舎さよならパーティー」は、「不特定多数の人と駅舎のお別れの時間を共有するため、駅舎が見渡せるカフェでの「お別れ会」を開催。そこでメモリアルボックスを作成し、後日、駅舎の一部を納めたメモリアルボックスを海に送る、「舟送り」をおこなう」というものであった。そして、それら全てを撮影し、アニメーションの素材とすることが決まった。三津駅舎の解体記録や駅舎部材の利用などに関して伊予鉄道の協力を得られることとなった。

    その後、2008年6月ころより、「想送」などのプロジェクトの内容をめぐって伊予鉄道の協力が当初ほどは得られなくなり、一部の内容の差し替えなど対応に追われたが、あくまで基本的な考え方は変えずにプロジェクト実施をすすめることになった。

    カコアメンバーは、三津駅舎正面にあるイタリア料理店の協力を得て定点カメラを置き、6月下旬から定期的な駅舎の撮影をおこないつつ何時になるかわからない駅舎解体に備えた。並行して、予定通り、8月2日3日に同料理店で「三津駅舎さよならパーティ」を開催、駅舎部材の灰を入れるメモリアルボックス作りのワークショップを開催した。
    8月13日に駅舎解体が開始、19日にすべて解体されたが、定点カメラによって、またメンバーによる撮影で記録され、作品の素材となった。10月12日には、「舟送り」が地元漁協の協力を得て実施され、三津駅の灰が伊予灘に撒かれた。
    「三津駅舎想送プロジェクト」を締めくくる山内知江子の新作パペットアニメーション「昨日の明日」は11月23日にシネマルナティックで公開された。幸い好評を得て、三津地域で何度か上映され、カコアにとっても大きな財産となった。

    カコアプレス2号

    この一連のプロジェクトを振り返るときに、個人的には、彫刻家若林奮が東京都西多摩郡日の出町の二ツ塚ゴミ処分場内トラスト地に製作した「緑の森の一角獣座」(1995年)を思い出す。若林は、トラスト地の強制収用が予想されるなかで、眼前に出現させた庭を「未来」として提示し、それを詩人吉増剛造が「緑の森の一角獣座」と命名したのであった。若林は物理的には消え去るだろう作品について「作品は、今後も変化する現在として継続する」と述べている[1]。庭は、2000年に東京都によって強制撤去された。山内作品も、「変化する現在」として継続していると言えるのだろう。

    一方、中間支援者であるカコアは、地域における価値観の相違と、それに関わる企業の姿勢およびその変化に直面し、難しい選択を迫られた。結果として、作品が大きく歪められることはなかったが、アートNPOのあり方そのものの再考を迫られることになったのである。

  • 2)「アートプラットフォームえひめ(APE)」の構想

    ①アートプラットフォームとは
    「昨日の明日」上映会の前後から、カコア内部でも、思いを同じくする複数の非営利団体の連携による地域とアートを結ぶ活動の重要性が議論され始めた。プロジェクトを積み重ねることにより、我々はイベントをおこなうことだけが目的ではないとの思いを深めるとともに、単独のNPOで取り組む限界も指摘された。地域の文化資源を十二分に活用しながらアートの振興を果たしていくためには、複数の非営利団体がそれぞれの持ち味を発揮して連携することが必要だとの考え方が浮上した。
    その構想が、「アート・プラットフォーム」である。
    「アート・プラットフォーム」とは何か。
    2005年ごろより、各地域の芸術文化環境整備のために、その保障のための「アートプラットフォーム」という考え方が広がってきた。
    金沢市では、「金沢アートプラットフォーム2008」という名称のアートプロジェクトを展開、その際、金沢21世紀美術館館長秋元雄史は、「「アートプラットホーム」とは、文字通り、駅のプラットホームをイメージし、そこでは、アートを介して人々が出会ったり、情報が行き交うことで新しい出来事の誘発を可能にします。それによって、会社、家庭、学校、地域、といった社会のさまざまな枠組みのあいだに新たなバイパスをつくること、人々のあいだに対話を生み出し、都市がいきいきとした活動の場となることを目指しているのです。」と述べ、また、「このように、社会と自覚的に関係を持ちながら活動するアーティストたちと継続的にプロジェクトを行うことによって、金沢の街に暮らす人々とアーティストが協同する場を生み出してゆこうというものです。」としている[2]
    横浜では、結婚式場を舞台芸術の創造拠点として転用した公設民営の「急な坂スタジオ」を市と協働して運営するNPO法人は「アートプラットフォーム」と名付けられた。
    同じく2008年から別府市では、BEPPU PROJECTによる「platform制作事業」がスタートした。これは、別府市内の空き家をリノベーションして沢山の「コミュニティ・スペース(アート・スペース)」を形成し、その間に就労支援施設や起業を志す小スペースを配置して産業と交流の起点とし、分散型のアートセンターを目指すというものであった[3]
    これらの試みは、金沢市と横浜市は行政主導、別府は官民協働で実現したプロジェクトであった。
    これに対して、松山市での試みは、民間の中間支援のアートNPO「アートNPOカコア」「シアターネットワークえひめ」(TNE)、「アジアフィルムネットワーク」(AFN)の三者が交流を積み重ねた結果が、アートプラットフォームとして実を結んだものであった。

    ②アートプラッタフォームえひめの運営
    アートプラットフォームえひめは、WEB上の交流とハードとしての「アートステーションおいでんか」を運営することとなった。

    もともと松山市の二つの商店街が交叉する地点にあった「おいでんか」(松山の方言で「いらっしゃいませ」を意味する)は、空き店舗になっていた「いよぎん南ビル」(旧伊予銀行松山南支店)をまちづくり施設として活用するため、株式会社まちづくり松山が愛媛県・松山市の支援を得て2006年11月に開設したものであった。一階に物産販売所を置き、イベントホールや会議室、貸事務所、それにベビーカーや車椅子の貸出、休憩所・トイレの運営をおこなってきた。しかし3年の時限事業であったため、2009年4月よりまちづくり松山単独での運営が難しくなるにいたった。そこで、何らかの形で「おいでんか」に関わってきたNPO三者がその維持活用を議論し、2009年6月に「アートステーションおいでんか」としてリニューアルするにいたったのである。
    当該ビル5階にはすでに2008年より「シアターネットワークえひめ」が稽古場を整備していたし、元々事務所をおいていた「アジアフィルムネットワーク」、定例会やイベントを実施していたカコアが、恒常的に活動していた。三者は、伊予銀行の協力を得て、まちづくり松山と協働し、松山市や松山商工会議所の補助金やAAFの助成を活用、会議室や事務室は維持しつつ、1階は休憩所とアートにかかわる情報交流スペース、地下はイベントホール。4階はTNEアトリエとした。文字通り、まちなかのアートステーションとして機能したのである。
    これは、松山市では初の民間主導による官民協働のアートプロジェクトでもあった。

    アートステーションおいでんか 1階

    「アートステーションおいでんか」の運営は順調で、三者のワークショップ・公演・ミーティングはもとより、書道、大正琴、短詩系文学、陶芸などの関係者に幅広く利用されたほか、行政や商店街のイベント、愛媛大学地域創生センターの「まちなか大学」、映画上映、ダンスや演劇の公演、落語会の継続的な開催など、以前よりも若い人々に利用され、近隣にカフェなどの新しい店舗が開店するなど、アートのみならず、まちづくりへの貢献も見られた。
    しかしながら、2009年12月末に、大家である伊予銀行より、2010年3月末で契約を更新しない旨が通告されて、「アートステーションおいでんか」の運営は三者の予想より早く運営を終えることになった[4]

    「アートプラットフォームえひめ」として参加した「アサヒアートフェスティバル2009」の検証事業において我々の取り組みは

    地元の3つのアートNPOが協働で、空きビル・店舗を使い、アートに関する情報センター・ギャラリ―の運営を開始。
    事業は端緒についたばかりで、成果としてはこれから。
    行政がすべきことを地元NPOが覚悟してやっている感があり、そのチャレンジ精神は評価できる。
    アート系NPO(中間支援組織)のネットワーク拠点整備としては、地方でのモデルといえる。
    町づくりの点でも興味深く、トータルなNPOセンター的機能を果たす可能性がある。
    ただ、特徴的なプログラムが見えてこない。
    個々の自主事業は、継続して運営されていくのはわかるが、アート活動としては弱いように感じる。
    この活動を通じて、どんな新しい価値やアート活動をうみだしていくのか、今後が期待される。

    と評価された。これは、アートプラットフォームえひめが抱えていた問題点を的確についていた。
    端的に言えば、行政でないとできないことを背伸びしてやる困難と、連携と協働によってプロジェクトとしては個性が見えにくくなるという2点であった。

    一方、「アートプラットフォームえひめ」という枠組みでの活動は、地域での非営利団体同士の信頼関係を深め道後オンセナートにつながっていく。なお、アートプラットフォームえひめ自体は、2012年5月元和光幼稚園のスペースに誕生した小劇場「シアターねこ」を新たな拠点として、再スタートし、地域に開かれたアートな場所づくりとネットワーク構築に向けてゆるやかに活動している。
    伊予鉄道と伊予銀行という地域を代表する企業との協働には、様々な困難が立ちはだかったが、地域の志を同じくする非営利組織との連携を深めるとともに、アートNPOのあり方を見直す重要な契機となった。

    APEプレス

  • 3)積み重ねる小さなプロジェクト

    この間、APE以外にも、多方面にわたってプロジェクトを積み重ねた。そのほんの一端を紹介する。
    三津浜には現在にいたるまで継続して関わり、大小いくつものプロジェクトを実施してきた。
    2011年は、「うみ・やま・まち アートピクニック in 愛媛」と題し、アートプラットフォームえひめ実行委員会との共催でAAFの助成を得て、三津浜をはみ出した事業を実施した。「まち」=三津浜・中心市街地のほかに、「うみ」では、閉校となった中島東小学校(忽那諸島)を舞台に、「蘇る島の学校いちにち文化祭」と題したイベント実施した。これは、他のいくつかの団体と共催して、閉まった小学校の体育館と校舎の一部を利用して同時多発的にイベントを実施するというものであった。カコアはアニメーション作家山内知江子と得居幸(振付家・ダンサー、ヤミーダンス)とのユニット「Hanbun.co」によるパフォーマンス「植えたら生えた」を実施した[5]。また、「やま」では、久万高原町の山林で、久万造林や伊予市の建築家武智和臣と協働し愛媛県森林環境保全基金公募事業として「山の基地」という事業を実施した。子供たちと杉林の成り立ちを学び、広大な土地に杉板で「山の基地」をつくりそのなかで杉材の箸置きや皿をつくるワークショップであった。これらの事業を通して、「うみ」「やま」のそれぞれの得がたい魅力を再確認しつつ、置かれた厳しい状況をも認識する貴重な機会となった。その後、愛媛県森林環境保全基金公募事業の助成は、毎年のように得て事業を実施している。

    「うみ・山・まち アートピクニックin愛媛」カコアプレス

    山の基地チラシ

    そのほか、2010年には、「APEクリエイティブフォーラム」と題して、佐々木雅幸大阪市立大学教授をむかえて「「創造都市・松山の可能性」、南條史生森美術館館長をむかえて「都市創造と建築、そして芸術文化」という二つの講演会・シンポジウムを開催、2013年には、瀬戸内アーキテクチャーネットワークと共催で建築家・建築史家藤森照信氏を招いて「丹下健三生誕100周年記念  Discover TANGE, Discover EHIME 」と題した講演会を実施するなど、学び交流する事業も継続した。
    また、福祉施設や大学、さまざまなジャンルのクリエイターたちと協働したイベントも数多く実施した。

    創造都市松山の可能性チラシ

    丹下建三と愛媛の建築チラシ

    藤森照信氏講演風景

    AAF参加をきっかけに、首都圏の愛媛県出身者で広くアートに関心を持つ人々との交流も始まった。2009年11月には「NANSHIYON?」を渋谷のクラブ「WOMB LOUNGE」で開催した。愛媛県出身で首都圏在住のオーガフミヒロ(美術家)、後藤雅樹(彫刻家)、岡部修二(建築家)を招き、多様な参加者が地域を超えた課題を共有した[6]

    これをきっかけに、「カコア東京」という小集団が生まれ、愛媛県という地域にこだわりつつ、それに拘泥しない取り組みが深化した。

    なんしよんフライヤー

  • 4)道後オンセナートへの参画とDAPの組織

    ①「道後オンセナート」の概要

    「道後オンセナート」は道後温泉とアートを組み合わせた造語である。2000年代後半からの宿泊者数の減少、女性個人客の増加など新たな観光動態への対応、2017年秋の愛媛国体後の道後温泉本館改修、継承可能な新たなブランドイメージの構築といった課題に対して、アートによる地域資源の再発見と発信、まち歩きの楽しさを創出する観光コンテンツの開発、新たな「道後」を牽引する「担い手」の育成といった目標を定め、2012年末頃より松山市役所道後温泉事務所と道後温泉旅館組合などが主導して構想され、「道後オンセナート2014」は、2013年12月にプレオープン、2014年4月にグランドオープン、同年12月まで休むことなく続く、全国でも稀な長期間にわたるアートフェスティバルであった。2015年、2016年は規模を縮小して「道後アート」として実施、2017年後半より「道後オンセナート2018」が始まり、2019年と2020年はふたたび「道後アート」として実施された。2022年には再度「道後オンセナート」が計画されている。
    詳細はドキュメントブックに譲るが、カコアは、組織として地元プロジェクトの一翼を担ったほか、理事長が実行委員、専門委員、アーティスト選考委員と立場を変えながら関わった。地元プロジェクトでは、APEの枠組みに加えて、地元のコンサルタント会社や広報のスキルを持った個人などが参画した「道後アートプロジェクト」(「DAP」)を組織し、一部のアートフェスティバルで見られるような広告会社に丸投げする方式を取らなかった。

    カコアとしての評価は難しい。当初「道後オンセナート」(間の年の「道後アート」を含む)は、観光振興、まちづくり、アートの振興の3本の柱でスタートしたが、そもそも主体は、松山市産業経済部道後温泉事務所であり、産業としての観光振興が優先されていた。2014年、最初の「道後オンセナート」では、投下資金の7倍を超える直接の経済効果があり、その意味で大成功であった[7]一方、まちづくりやアート振興の面における検証が十分であるとは言い難い。カコアはその二つの側面に大きく関わってきたので、今後、自ら評価をすすめていく必要があるだろう。
    ただ、「道後オンセナート」の開催に疑義を持っていた地元関係者の何人かは、開幕の半年後くらいから、変化し始めた来場者の客層(若者や女性の一人旅の顕著な増加等)を目の当たりにして、アートプロジェクトに対する見方を変えていったほか、各旅館がフロント・ロビー・客室に先端的なデザインや現代美術を取り入れるようになるなど、地域のアートに対する意識を大きく転換したことは確かであった。
    松山市で初めての官民協働の大規模アートフェスティバルの果実を無駄にすることなく今後に結び付けられるかは、カコアにとっても大きな課題である。

    道後オンセナート2014チラシ小

    高橋匡太「ひかりの実」2014(地元プロジェクト。子供たちとのWSによる作品、2021年まで毎年展示された)

     

  • 5)未来へ

    カコアの運営は、ある意味で「拡大路線」との闘いであった。
    一定程度の規模の事務所を持つことは、最初から想定しなかった。平日午後の数時間だけ開所する事務所を維持するだけでも年間に200万円以上の固定費が必要であり、それを稼ぐための事業を継続的に実施しなければならないからである。
    継続的な事業としては、たとえば、当時、新たに生まれた指定管理者制度があった。
    指定管理者制度は、公の施設の管理・運営を、株式会社をはじめとした営利企業・財団法人NPO法人・市民グループなど法人その他の団体に代行させることができる制度であり、いわゆる「小泉改革」の一環で2003年9月に生まれたものである[8]。まわりからは、何故指定管理者を取りにいかないのか、という問いを何度も受けたが、そのためには、運営の規模を拡大する必要があり、事務所を持つ何十倍の予算を工面しなくてはならない。
    われわれは、そのために多大な労力を費やすよりは、無理をせず、小規模ながらメンバーのスキルを活かした中間支援に徹する道を選んだのである。
    したがって、誰かが強力なリーダーシップで事業を実施するという手法も取らなかった。現在も構成員の8割以上が出席する月例会(「ラボ」)で議論して、すべてを決めている。

    一方で、カコアを含むアートNPOを取り巻く状況が、カコア結成時の2004年よりも好転したとは言い難い。
    2018年に著された公益財団法人セゾン文化財団理事長片山正夫による「アートNPOの経営をギャンブルにしないために」という興味深い文章がある。片山は、「この国でアートNPOをやるのはもはやギャンブル」と語った老舗アートNPO代表の言葉を引用しつつ、「中間支援型の組織や、プロデュース団体、ネットワーク型組織、小規模なオルタナティブスペースなどを運営する団体」はどうしても公的な補助金(形は事業委託の場合もあるが、ここでは補助金に含める)や、民間の助成金に頼るところが大きくなる。もとより事業収入は微々たるものだ(たいていミッションに沿おうとすればするほど少なくなる)し、一般からの寄付や会費も集めにくいからだ。社会の“縁の下の力持ち”的存在で、一般市民に存在をアピールできる機会が少ない中間支援型組織の場合、とりわけその傾向が強い。」と述べる。その一方で「本来こうした団体にこそ公的な支援を手厚くしたいところだが、あいにく日本の文化政策には、アートNPOの経営を安定化させねばという差し迫った問題意識はみえない。ただ、やっている事業は良いから、個々の事業にはその都度お金をつけようということになる。そしてこの「その都度」という部分こそが、」「「ギャンブル」につながるところにほかならない。」と語る。片山は、アーツカウンシルに幽かな期待を寄せつつ、「なにかムーブメントを起こしていけないものだろうか? 」という言葉で締めくくる[9]
    事業に関して補助金に頼るのはカコアも同様である。一方、社会的な役割が重くなればなるほど、運営そのものが毀損しない方途も考え続けていかねばならない。
    我々カコアは、まさに、「アートNPOの経営をギャンブルにしない」ように工夫しつつ、焦らず着実に、ときには恐れることなく、アートをめぐる社会的課題と向き合っていきたい。

    蔵出しアートⅢ「デコ・プロジェクション」(2004年、カコア初期のプロジェクト)

     

  • 注釈

    [1] 若林奮『緑の森の一角獣座記録集 1995‐2015』(一角獣座を緑の森に残す会、2015年)
    [2] https://www.kanazawa21.jp/exhibit/k_plat/exhibit.php
    [3] http://www.beppuproject.com/work/528
    [4] 徳永高志「市民が文化芸術を支える」(井口貢・松本茂章・古池嘉和・徳永高志『地域の自律的蘇生と文化政策の役割』第Ⅳ章(学文社、2011年)
    [5] https://hanbunlive.wixsite.com/hanbunco
    [6] https://nanshiyon.blogspot.com/2009/10/nanshiyon.html
    [7] 道後オンセナート・道後アートに関して包括的にまとまったものとして道後温泉事務所課長である山下勝義による「道後温泉の活性化について」(『温泉まちづくり研究会 2020年度総括レポート』19~28頁、2021年3月、公益財団法人日本交通公社)がある。全体の討論記録のなかで、道後温泉旅館経営者の考えを知ることもできる。
    ただし、松山市HPから一部年度の事業のHPにたどりつけないなど、アートフェスティバルとしてのアーカイブや検証には課題が残る。
    [8] 小林真理編著『指定管理者制度―文化的公共性を支えるのは誰か』(時事通信出版局、2006年)が、指定管理者制度によって文化芸術にどのような影響があるかについて詳しい。
    [9] https://npocross.net/278/

  • 執筆者プロフィール

    徳永高志

    1958年岡山市生まれ。博士(文化政策学)。日本近代史研究を礎に、19世紀末に成立した地域の芝居小屋研究に取り組み、文化施設の歴史や運営にも関心を持つ。松山東雲女子大学教員を経て、2004年に、アートと地域の中間支援を目指すNPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ(通称QaCoA)を設立。現在、内子座、町立久万美術館、淡路人形座のほか、伊予市、神戸市の文化施設計画や文化政策にもかかわる。慶應義塾大学大学院アートマネジメントコース非常勤講師。著書に、『芝居小屋の二十世紀』(1999年、雄山閣)、『公共文化施設の歴史と展望』(2010年、晃洋書房)、『内子座』(2016年、学芸出版社)など。

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