松山ブンカ・ラボ

JOURNAL

特集記事

2021.11.10 UP
VOL.
vol.27
column
滲むグラデーション - 住吉 橋の上GIG2021/演劇をもっと楽しむための戯曲リーディングワークショップ/文化をつくるワークショップ

戸舘正史(松山ブンカ・ラボ ディレクター)

  • 《住吉 橋の上GIG2021》~能動的な公共のカタチ

    10月10日の日曜日、松山市の三津浜、駅前の住吉橋の上では緩やかで開放的かつ解放的な時間が流れていました。《住吉 橋の上GIG2021》は正午から入れ替わり立ち替わり、10組のミュージシャンが橋の上=ストリートでライブを繰り広げ、20時過ぎにはこのイベントをオーガナイズしたミュージシャンEKDのバンドEKD y LOS CHANGARASの演奏で大団円を迎え名残惜しげにイベントを終えました。

    伊予鉄三津駅前の住吉橋上には昼からたくさんの人たちが集まった。

    子ども連れの若い夫婦がずいぶんと目立ち、三津浜の人たちだけではなく、ちょっぴりアナーキーでヒッピーなニオイが好きそうな人間たちが、ビールやたこ焼きを片手に踊っています。私もほろ酔い気分でなんとなくノリを合わせながらも微妙な距離感を保ちこの状況を眺めていました。誰もが出入り自由な雰囲気、踊りたい人は踊る、おしゃべりに興じたい人は興じる。そして繰り広げられる音楽はひとつのベクトルへ向かうそれではなく、コミュニケーションとしてのそれであり、創造的で自由なパブリックの場が連鎖的に生成されていきます。松山ブンカ・ラボが目指していることは、こういう場や機会が、あちらこちらで生成されていくことで、この3年半の間、そのための実験的なアプローチや、ささやかなサポートを行ってきました。いわば、制度として、仕組みとして、三津浜の橋の上のようなアクションやコミュニティが生まれてくる条件や環境を整えようとしています。しかし、あの日の三津浜での能動的に公共が立ち上がる姿を前にした私は「こんな自由な感じを制度では作れないよな」と打ちひしがれ、酔いは一気に醒めたのでした。


    夜8時半まで宴は続いた。

  • 《戯曲リーディングワークショップ》~バラつきのあることの豊かさ

    この日の余韻もつかの間の10月12日水曜日の夜、松山ブンカ・ラボとSCHOP PROJECT主催による《演劇をもっと楽しむための戯曲リーディングワークショップ》の第1回目が開催されました。市民公募の企画をブンカラボが団体と共催して実施する「文化サポートプログラムらぼこらぼ」の事業です。松山を中心に活動する俳優・演出家の高山力造さんのファシリテーションのもと、チェーホフの『桜の園』を読んでいくワークショップで、定員を上回る30名近い参加者が集まり、会場のUDCM(松山アーバンデザインセンター)はまあまあの密状態です。

    松山市、東温市を中心に精力的な演劇活動を続ける高山力造さんからアドバイスを受ける参加者。

    きっと演劇経験のある人ばかりが申し込むのだろうと思っていたところ、蓋を開けてみると、実に多彩な属性の市民が集まりました。高校生から、サラリーマン、年配の方、戯曲を読んだこともない人まで。こんなバラつきのある集まりというのはそうそうないものです。戯曲を介して少しずつ対話は進み、みんなとても楽しそうです。三津浜の橋の上にも多彩な人たちがいましたが、雑な括りではあるけれど“アナーキーでヒッピー”と言いたくなるようなある種の傾向がありました。しかし、このリーディングワークショップに集まった傾向をひとつの形容に落とし込むのはなかなか難しいものがあります。私はこの状況を見て「ああ、これはやっぱり制度として働きかけた集まりだからだな」と思い至りました。

    戯曲を通じて自分自身とも向きあう時間。

    三津浜のあの集まりは、いわば同質的な集まりです。ストリートでの音楽イベントに対する嗜好を持つ人が集まることによって同質性を招いたとも言えるでしょう。自ら主体的にネットワークとアンテナを駆使して、能動的かつ自発的に集まった人たちです。べつにそれが悪いわけではありません。むしろ素晴らしい。一方で、リーディングワークショップに集まった人たちはブンカ・ラボのチラシや松山市の広報などで情報を半ば受動的に知り、申し込みをして集まってきた人たちです。少し勇み足の発言になるかもしれませんが、この人たちは三津浜の橋の上には集まらないような気がします。これもまた悪いわけではありません。なるほど、松山ブンカ・ラボという“お上お墨付き”的な旗印が安心材料となって、参加を迷っている人の背中を後押したのではないか、そんなことを思うわけです。

    制度が作るコミュニティのメリットは、ある目的のために異質な人間同士が集まりやすいことにあります。この人たちが三津浜のようなテイストの場をつくったり、担ったりすることはないかもしれない。でももしかしたら、またちょっと違う同質性を帯びた集まりや場を立ち上げる可能性はありそうです。街や地域を俯瞰して見たとき、同質的な小さなコミュニティが点在していることによって、社会はたくさんのいろいろなコミュニティが共存する異質性を担保できるのではないか。そんなことを考えて、打ちひしがれていた私は少し立ち直りつつあります。

  • 《文化をつくるワークショップ》~グラデーションの文化

    さてそんな中、松山ブンカ・ラボの“制度的な振る舞い”として最もボリューミーなプログラム《文化をつくるワークショップ~松山市文化芸術振興計画って何?》が始まりました。松山ブンカ・ラボの活動の根拠となっている松山市文化芸術振興計画は2018年3月に策定され、第1期は2023年3月までの5年間となっており、2022年からは第2期に向けて現計画を見直す作業に入ります。4年目に入ったタイミングで計画について考え、文化芸術振興とは何か?ということを捉え直していくことがこのワークショップの目的です。

    参加者の文化のイメージが集積される。

    第1回では30名ほどの参加者に「あなたの好きな文化は何か?」を問い、二人一組で互いの好きな文化について、そしてその文化が10年後どのようになっていたらよいか、という二点について対話する時間を持ちました。当然と言うべきか、「好きな文化」については、演劇、音楽、美術、俳句、文学など、既存の分野化された文化芸術が多く挙がります。また好きな理由も「心が豊かになる」「楽しい」というような精神的な涵養に資する点が多く挙がりました。好きな文化が10年後どのようになっていたらよいかというイメージについては「万人に受け入れられる」「開かれる」「定着する」などが多く、好きな文化がより社会に根付いていくことを望む声が多かったように見受けられました。

    坂の上の雲ミュージアムにて対話を続ける。

    「あなたの好きな文化は何か?」という問いに一人だけ「人間の営み全体」と答えた参加者がいました。文化の一般的な概念として至極当然な見解だと思います。しかしこの見解がほかの分野化された文化(芸術)と相反するものではないことは言うまでもありません。なぜなら「人間の営み」のなかに演劇も音楽も美術も文学もあるのですから。文化の辞書的な概念に縛られる必要はありませんが、いまいちど確認しておくことは大切かもしれません。『広辞苑 第5版』(岩波書店)によると文化の定義は次のようにまとめられています。

    ① 文徳で民を教化すること
    ② 世の中が開けて便利になること。文明開化。
    ③ 人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ、科学、技術、学問、芸術、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義で用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び技術的発展のニュアンスの強い文明と区別する。

    どうやらわたしたちがとりあえず相手にすべき定義は③のようです。簡単に言うと“人間が関与して生まれたもの”ということになりますね。古くは19世紀後半の文化人類学者エドワード・タイラーの文化の定義「知識、 信仰、芸術、道徳、法、習俗等、人間が社会の一員として得ることのできるすべての能力と慣習の総体」が有名なのですが、これを引くまでもなく“文化とは何か?という問いは、確かに“人間の営み”そのものとも言えるわけです。でもその問いはほとんどトートロジーと言ってもよいものでしょう。なぜなら“文化と何か?”と問うことは常に“人間の営み”全体に内包される様々な要素についての定義が求められるからです。渡辺靖さんが著書『文化を捉え直す』(岩波書店、2015年)でも端的に指摘されていましたが、むしろ“文化とは何か?”という問いよりも「いつ、どこで、だれが、何をもって、誰に対して、何のために、どのように、文化を線引きして用いるか?」という問い立ての方が大切かもしれません。つまり私たちは、意識的にであれ、無意識的にであれ、文化を区別し、境界線を引いているのではないでしょうか。文化が「人間の営み」であるとしたら私たちは、人間も、その人間の独自の営みも、区別し、線を引いているということです。差別し、序列をつくり、階層をつくるということも、この「線を引く」という行為と意識にルーツがあるとも言えます。一方で、線が引かれることによって、異なる文化が相対化される状態になり、こちら側の文化とあちら側の文化を相対的に観察し、その複眼的な視点をポジティブに活用できるとも言えます。

    初めて出会った人同士がお互いの文化観を交感する。

    そしてその複眼的な視点を活用して、境界線を滲ませていくように、あちら側とこちら側が緩やかに繋がっていくような状態をつくれないものでしょうか。例えば、演劇や音楽のような文化芸術もまた、線が引かれることによって分野化され名付けられていきます。境界線を滲ませるという発想は、線と線の境界がグラデーションのようになっていくということです。そこでは、演劇でもない音楽でもない、分類化できないような生まれたばかりの文化芸術が、グラデーション上の名付けられていない色のように位置付けられていきます。文化の状態を、無数の配色のグラデーションとして捉える。そこには確かに、目に見えない線が引かれているかもしれないけれど、線を意識せずに、ヒョイっと線を超えてみる。あるいは線上に身を置き、あっちとこっちと手をつないでみる。名もなき文化が気になってくる。そこには、名付けられた文化と名付けられていない文化の序列はないはずです。

    26名の参加者による「私の好きな文化」と「10年後の好きな文化」

    多くの参加者の方々が、10年後の自分の好きな文化に関して、より広く受け入れらるようになってほしい、より盛んになってほしいという素朴な希望を挙げていました。好きな文化が社会に根付き、広く支持される状態を望むのはもっともなことです。でも無数の配色のグラデーションの上に好きな文化があると想像してみたらどうでしょうか。自分の好きな文化の色が、グラデーションの一角を占有してしまったら、グラデーションは壊れてしまいます。でも、グラデーションの上で、他の文化とつながったり、混ざっていくことを大切にしたらば、名もなき新しい色が生まれるかもしれない。三津浜の橋の上のコミュニティと戯曲ワークショップのコミュニティが直接的に手を結ぶことはなくても、双方がこの街にあるからこそ生まれる新しいアクションが立ち上がっていけば、松山の10年後の文化はさらに魅力的なものになる気がしてなりません。

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