松山ブンカ・ラボ

JOURNAL

特集記事

2019.11.23 UP
VOL.
005
column
ブンカ・ラボの1年を振り返って ~ 「限界芸術」の視点から

越智孝至(NPO法人シアターネットワークえひめ)

  • 「限界芸術論」とブンカ・ラボ

    松山ブンカ・ラボの最初のプログラムであるシンポジウム〈アートは社会の役に立つのか? 文化芸術とまちづくり〉(2018.11.3)から1年経ちました。シンポジウムやスクールの多くに参加した視点から、この1年間を振り返ってみます。

    文化芸術と聞くと、文化や芸術を専門に学んだ方たちだけに関係のある事柄だと受け止められる方もいらっしゃるでしょう。そうなると「文化芸術とまちづくり」とテーマを立てても、文化芸術を専門に学んだ方だけが関わることだと考えてしまうかもしれません。シンポジウムでは鶴見俊輔さんの「限界芸術論」を下敷きにして、そういう考え方の下地となる考え方を見ていきました。鶴見さんは芸術を、純粋芸術と大衆芸術と限界芸術に分けて考えます。純粋芸術は芸術の専門家が制作し芸術の専門を学んだものが享受するもの、大衆芸術は芸術の専門家と企業が制作し大衆が享受するもの、限界芸術は芸術の専門家ではないものが制作し大衆が享受するもの。鶴見さんは限界芸術の例として、日常生活の身振りや遊び、替え歌などを挙げます。要するに、限界芸術とは私たちの生活の中にある芸術的要素を持ったものだから、生活の中に溢れているものになります。松山ブンカ・ラボは、そのような限界芸術的な領域に照準し、私たちの生活を豊かにするような取り組みをしているのだと感じました。「生活を豊かにする」とは、日々の生活を新たな視点から捉えたり、生活に流されず意識的になる、ということです。

  • アーティストと市民の協働

    では限界芸術的なアートとは何でしょうか? 美術家の土谷亨さんの取り組みはそうかもしれません。〈まちと文化とアートの学校〉(以下〈学校〉)2019年度の初回のゲストを務めた土谷さんは、車田智志乃さんとのユニット「KOSUGE1-16」で様々なアートプロジェクトを展開しています。例えば「あいちトリエンナーレ2010」では、かつては繊維問屋街として賑わった名古屋・長者町で、若手経営者や市民とともに、山車を作りました。山車はかつて名古屋の祭りで各地域ごとに競っていたもので、長者町の山車は戦争で焼失したと言います。伝統文化としてあった山車を、シャッター街になりつつあった長者町で新たに作る、そういうプロジェクトです。これは地域の人がいないと成り立ちません。地域の人と協力し、地域の歴史をリサーチしながら、地域らしさを持った山車を作る。ここで行われていることは、アーティストに降って湧いたアイデアを表現する個人的な行為というよりも、地域の方の協力がなければ一つも前に進みません。この例の場合、山車を作り、祭りで山車を動かし、山車を中心とした町の文化を編み直す、そういう行為になっています。この事例は、美術家と市民が協力して、限界芸術的な行為をしたものだと考えられます。

  • 市民ひとりひとりができること

    非専門家による制作が限界芸術ですが、市民の中には、とにかく何かを作ってしまう人、作り続けてしまう人がいます。時々テレビのバラエティ番組で紹介されることもあるでしょう。そういう「作り続けてしまう人」は周りから時に奇異の目で見られることもあるかもしれませんが、そういう人や作品を探し出して、面白がって、展覧会を開いている人がいます。2018年度2回目の〈学校〉のゲスト、浦岡雄介さんです。浦岡さんは京都・舞鶴で、私設公民館いさざ会館を開いています。運営者ですが「用務員」と名乗っています。「私設」と「公民館」が矛盾しているのでは?と一瞬戸惑うかもしれませんが、もし戸惑ったとしたら、そこには「思い込み」があるかもしれません。「公的なことは公的機関がするものだ」と。浦岡さんは地域の集会所だった場所を借りて、住み込みで「公民館」を運営しています。地域の中から面白い表現、人を見つけ出して、展覧会や祭りや自由律俳句教室や「ご近所大学」を開きます。「大学」は、近所にいる何かに詳しい人に、そのことを語ってもらうもの。なるほど、わざわざ遠くにいかなくても、ご近所に「先生」を見つけることで、ご近所とのご縁もできるし、そのご縁を深めることもできる。「大学」を違った視点から見つめることにもなっているのかもしれません。いさざ会館には、学校に行けない子供が立ち寄ることもあるそうです。浦岡さんがされていること自体が限界芸術的なのですが、そういう場所には自由の風が吹いているのかもしれません。

    以上に挙げたのは、限界芸術的な取り組みですが、自分たちの生活を見直して、編み直すには、市民ひとりひとりができることもあるでしょう。限界芸術という考えは、市民ひとりひとりが実は表現者であると自覚するきっかけになるだろうと思います。とすれば、市民は個人としての意識、特異性を見つけ出していくこともまた重要になるのかもしれません。

    この視点から、尾﨑信さん(松山アーバンデザインセンター・ディレクター)と高森順子さん(愛知淑徳大助教)の話は示唆に富むものでした。

  • 答えるのではなく、問いかけるように

    尾崎さんは〈学校〉(2019年度2回目)で、ご自身の失敗談を打ち明けられました。尾﨑さんはかつて籍を置いていたコンサルト会社の事業で、岩手県平泉町の屋外広告整備を町民を巻き込んで取り組んだのですが、町民が「自分ごと」と捉えることにならなかったため、事業の終了後、尾﨑さん個人が町民とともに町のために何ができるかを考え、実行したことを紹介しました。尾崎さんは当初、町民が「町や商工会や事業会社が何とかしてくれる」とお客さん意識でいるところを、「自分ごと」になるようアプローチしたにもかかわらず失敗したと言います。そして「住民が自分たちでできることを考える会」を地域の方と作り、県の補助金に応募して、事業を始めることにしました。その中から生まれた「夢灯り」は現在でも続いていると言います。町民と中尊寺や毛越寺が協力して、送り盆に町中で灯りを灯すイベントです。

    専門家が来て話を聞いたり事業をともにする場合、市民の側は専門家が「答え」を知っていると受け止めてしまうかもしれません。例えばそれはこの松山ブンカ・ラボでも同じで、〈学校〉でゲストの話を聞く側が、何らかの正解を持った人の話を聞いているという意識でいては、おそらく何も生まれません。答えを受け取るのではなく、問いかけるように聞くのが大切なのかもしれません。

  • 災厄と当事者性の問題

    阪神淡路大震災に小学生の時被災した高森さんは、被災者の手記の編集をしています。「かなしみを綴ること」というテーマの〈学校〉(2019年度3回目)で、詩人谷川俊太郎さんの「かなしみはあたらしい」という詩を紹介しました。谷川さんの詩は、感情は個人的なもので、他人が知ることは決してできないことを記しています。やってくる感情は常に新たで、他の誰の感情とも、過去の自分の感情とも比較することは決してできない、極めて個人的なもので、だからこそ、理解するまでは個人が担うしかないものです。もし、幼子が大切な石ころを無くして落ち込んでいるところへ、親が「そんなことくらいで泣くな」と軽視するならそれは不当になってしまうものです。にも関わらずか、だからこそか、高森さんは、阪神淡路大震災の被災者で手記を書いている方たちが、東日本大震災の後の自分たちの集まりで「私たちにできることは何もない」とかなり落ち込んでいたことを紹介しました。

    同じような感情をお持ちになった方はいらっしゃるかもしれません。東日本大震災と福島第1原発事故の2011年、「被災者に比べれば自分の悲しみなど大したことはない」と、本来は比べられない感情を比べて、余計に落ち込み、ドツボにハマっていく、ということが。被災者の悲しみと自分の悲しみを比べるのは本来不当なのですが、比べてしまうことが起こったということは、感情を個人的なものと捉えるのではなく、個人を超えたものと感じるところがあったからかもしれません。そのような集団的な感情は、為政者やアジテーターに利用されたら危険なものとなるでしょう。また、そういう感情が出てしまうのは、個人意識が徹底されていないから、とも言えるのではないでしょうか?

    東日本大震災・福島第1原発事故直後に、松山からボランティアに駆けつけた人の報告を聞いて、自分が責められていると勘違いし「こんな大変な事態にボランティアに行った、それは立派だな。どうせ俺は行けないよ」と反発した話を聞いたことがあります。この方はボランティアに行けないことに罪の意識を抱いていたのでしょう。つまり「ボランティアに行かなければならない」という命令が自分の中に起こっていた、そこにももしかしたら、個人の意識を超えた何らかの感情が潜んでいたのかもしれません。大震災のような非常時だから、個人を呑み込んでしまうような感情が生まれたのか? それは分かりませんが、個人が個人である難しさを物語っているようです。

  • 記憶と歴史への眼差し

    高森さんの手記の活動は、被災者が表現する場を整えるという意味で、限界芸術的視点から見れば、市民の表現をアシストするものでした。では東日本大震災・福島第1原発事故後にアーティストの側はどう動いたか?佐藤李青さん(アーツカウンシル東京・プログラムオフィサー)が2019年度4回目の〈学校〉で報告しました。

    発災直後東北に移住し、被災者の記憶語りや当地の民話活動を元に映像やテキストを作っている小森はるかさんと瀬尾夏美さんや、復興公営住宅で被災者の音楽の記憶をインタビューしてラジオの形式で作品を作っているアサダワタルさんなどを紹介しました。アーティストは市民個人と向き合って、個人の記憶から、個人の記憶と切り離せない当地の歴史を「発見」して行きます。そして「このような人災は過去にも起こっていた」と知ることになります。それはアーティストにとっても市民にとっても、当たり前だけど驚くべきことでもあり、日々を丁寧に生きることにつながっているのではないかと思いました。

     

    振り返ってみると、この1年で、限界芸術の領域の豊穣さを知ることができました。松山ブンカ・ラボは松山市と愛媛大学とNPO法人などによる市文化創造支援協議会が設置母体となっています。行政も加わった枠組で、市民とアーティストをつなぐ中間支援があるありがたみをもまた感じた1年でした。

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