- VOL.008
- 2021.09.30 UP
- EKD さん
- ミュージシャン

先日、ラジオを聴いていたら、パーソナリティーの方が暮らしの手帖の創始者・花森安治さんの「〈くに〉をまもるということ」という文章の一節に触れ、花森さんが大政翼賛会で戦時中に国民統制に加担した反省から、「もっと個人が強くあっていい、人があって国がある。この順番をひっくり返しちゃいけない。」と考えていたと話していました。それを聴いて、昨年春に普段は自由や権利の大切さを説いている政治家の方たちが、自分たちの生活に制限をかけるべきだと声高に主張していたこと、そのことに少なからぬ戸惑いを覚えたことを思い出しました。国が決めたことが日々の生活に、より直接的に関わってきている昨今、個人はどう振る舞うべきなのでしょうか。
遡って、昨年の秋のこと。にぎやかな地方祭もなく、いつもと違う10月の三津浜駅前。住吉橋の上で「橋の上GIG」という音楽イベントがありました。昼から夜にかけて、住吉橋の上では地元のアーティストによる音楽やパフォーマンスが披露され、老若男女が立ち止まって音楽に耳を傾け、身体を揺らしていました。国境や県境など、内と外の境界がにわかに意識されるようになったなかで、地縁集団を分かつ川のその両岸を繋ぐ「橋」の上で音楽が鳴るということに、とても強い意味が感じられました。
今回の文化人録は、この「橋の上GIG」を主宰したEKDこと池田大樹さんへのインタビューです。
インタビュアー:鯰川 多ヌ吉
取材協力:とぉから
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街は市民のモノ
EKDは国内外のロックミュージシャンが集う国内最高峰のロックフェスティバル・FUJIROCK FESTIVALに過去に2度出演し、今や日本一面白い(当社比)と噂の超個性派ミュージシャンが出演する無料音楽イベント・橋の下音楽祭への出演、さらには海外公演も行っており、そのジャンルでは国内外で知名度のあるアーティストです。例年であれば全国各地のツアーで多忙だったはずのEKDが、コロナ禍の地元で開催したこの小さな路上イベントが現在の状況に対する彼なりのアンサーのように見えました。
今回のインタビューのなかでEKDは道路について、このように語っていました。
「システムの外で人間というものを考えてみましょうよ」
アナーキーの言葉で「city is ours」って言って、南米の人とか道路をすぐデモで占拠するんです。街って税金を払ってインフラを市民の力で支えているわけだから、市民のモノなんです。国とかじゃなくて。そこを日本人はお人好しだなと思います。
アナーキーっていうと無政府主義だとかいう人がいるんですけど、そういうことじゃなくて、もっと人間回帰というか、システムの外で人間というものを考えてみましょうよということを言いたいんだと思うんです。ぼくらの世代のアナーキーは。
自粛や新しい生活様式が、国などからわたしたちに選択可能な形で「要請」されています。それぞれの選択肢について、自分で吟味し、選択し、自分の考えを表明するということ。その自由さを手放さないために音楽をはじめとした文化・芸術はとても大切なものでは?と橋の上で思ったのでした。
今回は、いま個人がどう振る舞うことが出来るのか、ヒントをもらうため、EKDにインタビューに行きました。
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音楽との出会い
-三津が地元なんですよね?もともと音楽はされてたんですか?
三津の出身です。高校のときはストレイキャッツやクラッシュのコピーバンドをやっていました。日本のバンドでは、ギターウルフ、ミッシェルガンエレファント、ブランキ―ジェットシティ・・・。
当時はDJのカマタヒロシさんがやっていたレコードショップ・ZOOTに出入りしていました。TOKYO No.1 SOULSETが松山に来たら、カマタさんが前座でDJしたり、ハードコアをやってる先輩たちが古着屋をやってて、サロンキティでハイスタンダードやブランキ―ジェットシティが来るイベントをやったり、街ではいろんな動きがありました。ぼくはZOOTがジャマイカの音楽が強かったから、そこから影響を受けました。
インタビュアーの鯰川 多ヌ吉
-上京したのはいつですか?
高校を卒業して、建築の学校に通うために上京しました。建築の勉強は東京に出る口実で、上京してからはライブハウスに通ってました。
建築の学校を卒業してから、内装の仕事をしましたが、建築の現場は朝早いし、音楽の現場は夜なので、1年働いて内装は辞めて音楽の方を選びました。
東京に藤井悟さんや松岡徹さんが所属しているCARIBBEAN DANDYっていうDJクルーがいるんです。東京で初めてルーツレゲエをかけた人たちなのかな。そのCARIBBEAN DANDYのパーティーに行ってた同世代が集まって俺たちの世代でやりたいなって言って始めたのが未来世紀メキシコっていうパーティーです。そのクルーの仲間に入れてもらっってDJをやっていました。
TOKYO No.1 SOULSETの渡辺俊美さんは藤井悟さんに憧れて東京に出てきたそうです。当時は下北沢にslitsっていうハコがあって、スチャダラパーだったり、のちのち渋谷系になっていくようなムーブメントがあったのが80年代から90年代のことで。
ぼくが上京したときにはもうTOKYO No.1 SOULSETはすごい存在だったんですが、そんな中で俊美さんが新たに始めたTHE ZOOT16っていうニューウェイブとかパンクとかそういうアプローチのユニットがあって、そのバンドのローディーをやらせてもらうことになったんです。コーヤン(DOC.KOYAMANTADO:三津中の同級生でEKDと同じく未来世紀メキシコに所属)と2人で。それをやりたかったから建築を辞めたんです。現場監督が朝遅刻してくるんだから怒られますよね。当時はローディーをしながら、未来世紀メキシコのパーティーをやってました。
-その頃の生計は何で?
disk union(関東地方にあるレコードチェーン)の下北沢店でレゲエ担当をやってました。店員時代にレゲエの売り上げを10倍以上にしましたね。当時はバンドやってたり、DJやってたり、面白い店員さんが結構いましたね。角張君(かつて星野源も所属していた個性的な音楽レーベル・カクバリズムの代表)とかいた時代ですね。ほぼ出勤してなかったけど。お店では音楽の勉強させてもらいました。休みの日もレコード屋をはしごして聞き倒しました。
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大きな転機を経て演奏を始める
TOKYO No.1 SOULSETをはじめとした90年代後半の音楽は、ストリートダンス、グラフィティ、スケボーなど路上をある意味「占拠」する表現行為やそこから派生したファッションと親和性が高く、裏原宿や渋谷などの東京のストリートカルチャーの中心から、全国の若者に伝播していきました。
そんな東京のストリートカルチャーと同時代的に接続するカマタさんのような存在が地方にいること自体もそうですが、そういった人が地元の高校生と交流していたというところが松山のストリートカルチャーの豊かさだと思います。
橋の上GIGなどに現れている公共空間を遊び場、表現の場とするEKDの態度の基盤にはこういったストリートカルチャーがあるのかもしれません。
さて、未来世紀メキシコでDJとして活動していたEKDですが、現在のように演奏者としてステージに立つことになった背景には、彼自身の大きな転機がありました。
「すごく簡単な言葉で言うと反体制ですよね。共通して。そこに共感があった。」
人前で演奏を始めたのが25歳ぐらいからです。アルバムが出来て、ライブやれって言われて、でもそのアルバムは全部自分で作ってて、ライブをやるためには何人か自分がいなければならない。ZOOT16はオケをかけてて、DJなら未来世紀メキシコにもいるんで、そのなかでやりたいっていうシンクロした子たちと始めたのがEKDです。未来世紀メキシコのなかで生まれたバンドですね。
―自身が演奏するアルバムを作ったきっかけは?
ぼくが24歳のときに血液のガンになったんです。白血病ですね。転移が10か所以上あって、医師からは余命3ヶ月と宣告され、「帰れる場所あるなら帰りなさい」と言われました。家は友達に引き払ってもらって、すぐに単身飛行機に乗って帰りました。
そのままがんセンターに入院です。当時、血液のガンは外科手術ができなくて、抗がん剤しかなかったんです。退院してからも通院して何時間か薬打って、動けるようになったら帰ってと、とにかくなんもすることが無いんですよ。
薬は細胞分裂を止める薬なんで免疫力が落ちてるからだるいし、あんまり外に出れなかったんですよ。そんなかでカセットMTRっていう録音機材があって、それを自分の実家の学習机に設置し、夜な夜な。なんせ時間はあったんで。それでアルバムが出来て、それをインディーズで出して、そっから活動です。
ファーストアルバムはインストのアルバムでした。音源の反響が大きくて、未来世紀メキシコのパーティーだけではなく、他のイベントにも出演するようになりました。ルーツ音楽がずっと好きなんで、今思えば、そこを踏んでるから大人たちが面白がってくれたのかなと。
70年代のレゲエはルーツロックレゲエっていうんですけど、サウンド的にはそのマナーを踏んでますね。レゲエを演奏してるけど、パンクです。レゲエバンドが演奏するレゲエじゃないわけで、そういうところが面白かったんでしょうね。周囲の大人たちはパンクとして解釈したんだと思います。
パンクとロックとラテンの融合みたいな。The Crashっていうバンドのジョー・ストラマーなんかも、The Mescalerosっていうバンドをやってて、そのバンドもレゲエなんかが入ってるんだけど、聴いたらパンクなんですよ。
ボブ・マーリーの曲にもパンキーレゲエパーティーっていうのがあって、パンクとレゲエっていうのはすごく癒合されてて、70年代のピストルズのパンクーブメントのときに彼らがクラブで何で踊ってたかっていうとレゲエで踊ってたんですよ。70年代にパンクとレゲエの接点というのがあるんですよ。
左:鯰川 多ヌ吉/右:戸舘正史(松山ブンカ・ラボ ディレクター)
―音楽的なルールもさることながら、パンクというのは態度でもありますよね?
すごく簡単な言葉で言うと反体制ですよね。共通して。そこに共感があった。今は反体制って、反資本主義、反グローバリズムですよね。
ぼくが影響を受けたアーティストにマヌ・チャオというアーティストがいるんですが、影響を受けたっていうのはそういう思想的な部分です。口外はしてないですけど、同じ思想でやってます。
音楽は自由というのと同義語なんです。音楽やるっていうのは自由だと思い込まなきゃ出来ないんです。ジョン・レノンにいい言葉があるんです。「才能っていうのは自分に何かできるって思いこむことなんだ」って。出来る云々なんて才能じゃなくて、思い込むことが才能なんです。そこからしかストーリーは始まらない。まさにその通りだなと。
人間って案外、情報の交換よりも感情の交換でコミュニケーションしてて、音楽はうってつけのツールなんです。
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音楽の背景
EKDの音楽はレゲエやパンクなどの人種的なルーツが異なる音楽が混ざり合っていて、それぞれの音楽の背景にある歴史や思想に対する敬意と真摯な態度が感じられます。彼の音楽にとって混ざり合っているということは音楽的な特徴もさることながら、その文化的な背景も含めて重要なものとなっているようです。
とぉからの店内には様々な楽器が置かれている
―現在のEKDの音楽はどのようなジャンルになるんでしょうか?
大きな括りで言えば、ロックラティーノです。そこにマヌ・チャオがいたり、もっとパンクアプローチになるとメスティーソっていう混血音楽って言われたりするんですけど。
カリブ海、中米南米、アメリカも400年の奴隷制度があって、権力者と蔑まれる人の構造が出来上がって、アフロがすごく混ざってるんです。そこで混血してるわけなんですよ。クンビアという音楽なんかも1920年代からあるって言われてて、中米のパレンケっていう音楽はメキシコの先住民とアフロの混血で、場所によってシチュエーションがいくつもあって、そこで音楽が生まれ、リズムが生まれ、ラテン音楽におけるアフロの痕跡というのはむっちゃ色濃くて。社会背景というか、おのれの持ってきたルーツと植民地的なものが合わさってまた新しい音楽が生まれるみたいな感じです。
スレイブカルチャー(奴隷文化)はアメリカ大陸の文化に大きな影響を与えていると思います。そもそも歌うことすら禁じられてたりするわけで、ペルーにあるカホンていう楽器なんかは椅子に模していたんです。ガサが入ったときにこれ椅子ですって。チャランゴはポンチョに隠れるサイズになってたり、いろいろあるんじゃないかなあ。
ジャマイカもそうなんだけど、先住民は滅びてるわけじゃないですか。そこでアフロの人たちと入植してきた人たちのヒエラルキーみたいなものがあったり。ただ共通してるのがアフリカ回帰なんですよね。
松山市内にあるBar Caezar (バー シーザー)でのEKD y LOS CHANGARASによる演奏の様子
奴隷制という理不尽な状況のなかでの数少ない精神の解放をもたらすものが音楽であり、EKDの楽曲に通底するある種の自由さというのは、そのような背景への理解と共感から生まれてくるのではないでしょうか。
そして、彼が三津浜で経営する「とぉから」は音楽と同様、世間のしがらみから逃れられるアジールのような自由さが感じられる空間です。この空間にも当然、彼の音楽的な背景、更には海外ツアーでの経験が大きく影響しているようです。
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「とぉから」から生まれる関係性
-地元に帰ってきた理由は?
帰ってきたのは2016年です。ずっと考えてたんだけど、タイミングですよね。東京は仲間も多いし、いろいろ経験できたけど、常にそこに身を置いて生活しなくても、仲間もいるし、ぼく次第かなと思って。
―もともとお店をやる予定だったんですか。
店は思い付きですね。
一応目に見えるところの内装は全部自分でやりました。壊すことの方が多かったかな。音を出したかったから、床を剥いで、防音のためにコンクリで埋めて。1トン半ぐらいコンクリ埋めてるんじゃない。DOC.KOYAMANTADOと二人で。ピラミッドを作る奴隷の気分でしたね。
内装はもちろんメキシコの色彩も好きだけど、特に意識はしてないですね。好きなものを身の回りに集めたらこうなったという感じです。誰に物言われるわけもなく、自分の自主性でやってるので。
お店を作ろうというのは突発的なものなんですけど、バンドをやりたかったんで音を出せるアジトが必要のだったんです。部室みたいな感じかな。
タカシさん(隣にあるとても美味しいイタリアンレストランFLORの店主)が本当に美味しいピザを出すように本当にいい音楽を流すんですよね。お腹は満たせないけど、音楽的な欲求は満たせる。あと酒とタコスがある。音楽も直接的なものじゃなくて、なんかひねりを加えたいわけ。そうじゃないと音楽にならないというか。そこは自由でしょ。
お店に来る人どんな人もより好みはしません。思想的な差別もしません。多様性が保たれてればいいです。店をやるっていうのは空間を所有してるんで、好きなもんしか並べてないから、自ずとにじみ出てくるし。分かる人にはわかるし、わかんない人にはわかんない。会話の中でそういう会話になる人もいればならない人もいる。それでいいんですよ。
お店って所有するからアナーキーに反するんだけど、消滅するっていうことが重要だと思っています。生まれることより消えてしまうことが重要。その一瞬の発露というか。それがアナーキー。
とぉからの店内では飲食に加え、ライブなどのイベントも実施するなど多くの交流が生まれている
―EKDの音楽を聴いたり、とぉからに来ると、気持ちが解放される気がします。なんでなんだろう・・・。
バスクに行ったのが大きかったかな。
ヨーロッパ各地に不法に使われていない建物を使うスクワットセンターっていうのがあって、バスクではガスティッチェっていうんだけど、それが三津浜に1つとか、そういうレベルで各地にあって、若い子たちがそこを運営してます。そこがジプシーや路上生活者など、いろんな人の受け皿になってて、場所によってライブハウスがあったり、映画館があったり、ショップがあったりいろいろで、そこからバンドが生まれたり、カルチャーが生まれてるんです。使われていない建物を不法に使ってるんだけど、それを許容する文化があります。ヨーロッパは政府が発祥した場所であり、アナーキーが発祥した場所という歴史があるので、それがある意味で認められてるんです。
俺たちはボンベレネアっていうガスティッチェでお世話になったんだけど、複合施設みたいになっててアナキズムってのが循環してるのを体感しました。
ヨーロッパでは、トランスジェンダーなど社会的マイノリティや思想的マイノリティ、アナキストたちが一つの街に固まってて、タトゥー屋とかがあったり、音楽やる場所があったり、結構はっきりしてるんです。このストリートはこうだよって。国土って狭いじゃない。日本は真逆かもね。国境を接してないでしょ。そこらへんが大きな違いだと思う。
店内で流れる音楽を選曲するEKD
不法占拠した建物が文化の発信基地になっているというスクワットセンターはとても興味深い仕組みです。ボンベレネアにはなんと立派なホームページまでありました(https://www.bonberenea.com/)。確かに、とぉからにはボンベルネア的雰囲気がにじみ出ている気がします。
さて、三津浜にUターンして5年目を迎えるEKDですが、三津浜では三津のDIVA・中ムラサトコさんやそのパートナーのサ々キダヴ平さんの協力の元でアルバムを製作したり、とぉからと同じビルで餃子店を営むのぶさんプロデュースでCDを製作するなど、さまざまな個性あふれるアーティストたちとの協働があり、様々な場所から、様々な経緯で集まった人たちとのさらなる「混血」を経て、音楽がより「解放的」になっていっているように感じます。
とぉからに行けば今日もあらゆる国の音楽が鳴っています。そんな音楽を聴きながら、カウンターでラムを傾けてみると、いま自分を取り巻くシステムや空気から少し距離を置いて眺められるようになるかもしれません。いろいろと難しい時期ですが、こんな時期だからこそ、とぉからへ出かけてみては如何でしょうか。
(取材:2021年9月11日)
EKD
- ミュージシャン
2000年代始め、都内にてパーティーを主催していた集団"未来世紀メキシコ"の出身。
2007年よりメスティーソバンド"MESTIZO FUERZA"の活動を始める。JAPONICUSやCARIBBEAN DANDYと親交を深めながら経験を積み、東京での10年間の活動を終える。
2016年、地元である愛媛県松山市三津浜にライブができるタケリーヤ"とぉから"を立ち上げる。ほぼ同時期に地元メンバーによるバンド"STONE AXE"を結成。2018年、5枚目となるオリジナルアルバムをリリース。2020年には同メンバーによるアコースティックバンド"LOS CHANGARAS"を再編成するなど、ローカルに根ざした音楽活動を続ける。

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