- VOL.013
- 2025.03.05 UP
- 徳永高志 さん
- NPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ理事長

「次のインタビューはカコアの徳永理事長に」と聞いて、20代の頃の思い出が蘇ってきました。私は学生時代、ダンス部に所属していましたが、社会人になって仕事とダンスの両立の難しさを実感し、忙しさで何が表現したいかも分からなくなる日々を過ごしていました。その頃ちょうどアートNPOとしてカコアが設立されました。
当時、カコア主催で人形浄瑠璃やダンス作品が上演され、私も観客として出かけていました。そんな中、ダンサーの大先輩でもあるカコアメンバーからお誘いいただき、三津のアート蔵で小作品を上演する機会を得ました。「作品ってどう作るんだっけ?」というほどダンスと距離を置いていた状態から、試行錯誤をしながら、学生の頃とは全く異なる方法でゼロから作品を作りました。あの経験がなければ、今はもう踊っていないかも。当時のカコアの皆さんには感謝しています。そこで出会った人、交流、あきらかになった自分のルーツなど、その時に培ったものは今でも私の核の一部となっています。これは、私個人のごく小さな思い出ですが、こういった個人レベルの経験や想いの積み重ねが、アートや地域に対する想いとなり、広がっていくのではないでしょうか。
2004年のカコア設立から20年。2025年1月12日(日)~2月16日(日)には、松山アーバンデザインセンターもぶるラウンジで「カコア20年の歩みチラシ展」が開催されました。さまざまな場所や人をアートの力で結び、繋いできたカコアの活動の様子が紹介されていました。会場で徳永さんにご自身のこれまでの歩みを振り返りながら、お話しいただきました。
インタビュアー:宮本舞
取材協力:アーバンデザインセンター
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芝居小屋の建物が持つ魔力に衝撃を受けました
—ご出身は岡山ですね。なぜ愛媛に来て研究を?
徳永:1990年当時、大学院に通いながら、早稲田の附属高校で非常勤で日本史を教えていたのですが、文科省の外郭団体、日本学術振興会の特別研究員の募集ポスターを見て応募したんです。先輩方から難しいぞと聞いていましたが、時流も味方して採用になりました。出張旅費の支給もあり愛媛に調査に来ることができました。その縁で松山東雲女子大学人文学部に就職が決まって、1992年から松山で働くことになりました。
愛媛は、ちょうど研究内容に関連する事例があったので、赴任前も何度か調査で訪れました。1回目は、1980年前後の行政訴訟を調べていて昔の文書に、「瀬戸内海の忽那諸島の水が足りなくなった時は、隣の島に樋(とい)をかける。その樋はどちらの島が面倒をみるのか」という住民と行政の裁判の記録を調べていました。島に樋をかける?よく分からないし、行くしかないなと思って調査に出かけました。調査を名目に、人に出会ったり、とても楽しかったのを覚えています。何より、昔からの知り合いがいないのも自分には合っていました。
1991年に再び愛媛を訪れた時、知り合った人におすすめのスポットを聞いたら、美術好きなら久万美術館、劇場なら内子座に行くといいよと言われました。内子はちょうど町並みが整備された頃でしたが、行ったら、雪がちらちらして寒くて、誰もいなくて(笑)。八日市護国町並保存センターに行ったら、お茶を入れてくれて雑談しました。そこでも内子座を勧められて訪ねたんです。「内子座に出会ってしまった。衝撃を受けたら、そのルーツを探らなくちゃね。しまったなあ(笑)」
内子座に行って、まず佇まいを見て、衝撃を受けました。
僕はヨーロッパの演劇や音楽をやるために、心血を注いで築かれた施設が魔力を持っていると感じたことがありました。日本では、サントリーホールなどにそれを感じていましたが、数は少ないと思っていました。でもね。内子座で建物に入ったら、説明ができない衝撃を受けてしまいました。衝撃を受けちゃったら、そのルーツを探らなくちゃいけない…。「しまったなあ」ってね(笑)当時の歴史研究者の主流といえば、政治史、経済史ですからね。
もともとクラシック音楽が好きで。オーケストラが好きで。こういうことは仕事にするまいと思っていたんです。好きなものだからこそ、好きで終わらせておくことがいいと思っていました。仕事にしたらしんどいし、ましてや研究者になったら、面倒事がたくさんあるだろうなと思っていました。ですが、内子座に出会ってしまいました。—そうやって、芝居小屋や公共施設の調査・研究が始まったのですね。著書も出されていますね?
徳永:1999年に縁のあった出版社に行って、知人の編集者に「芝居小屋の本を出しませんか?」って話しに行きました。「また面倒な、売れない企画を持ってきたな」って言われましたね。まだ原稿は3分の1しか書いていませんでしたが、編集者が「国の助成金が取れたら出そう」って。で、申請したら助成金が取れたんです。原稿も完成していないのに。残りは頑張って書き上げました。当時で1万円もする高価な書物でしたが、在庫分は売れて出版社に迷惑をかけることはありませんでした。若手に機会を与えてくれた出版社に感謝していますし、未だに引用してくださる方がいらっしゃるのもうれしいですね。
アーティストだとみんなの前で表現するってことが発表になると思いますが、研究者冥利に尽きるのは、こういう風に形にして、時代を経て知ってもらえることで、歴史を繋ぐことができることです。愛媛大学の学生たちが内子町の小田地区の芝居小屋や映画館の調査をしているのですが、この本をテキストにしてくださっています。出会った学生さんたちがみんな頭をさげてくれるんですよ。徳永さんの著書。『劇場空間への誘い ドラマチック・シアターの楽しみ』(2010年)は日本建築学会編によるもので、最前線の演出家や建築家らと名を連ねて徳永さんの論考が掲載されている。「装丁もかっこいいよね」とお気に入りの様子
出版当時は若かったですね。かなり強引に調査したなと思います。内子町でも最初は信頼されていなかったと思います。後に知ったことですが、著名な大学の研究者に史料を貸したら返ってこなかったことがあったそうですし。それでも熱意は伝わったようで、担当職員さんからは、「全国の芝居小屋のネットワークができるらしいから、そこに行ってみては」と、紹介もしてもらいました。
1993年の夏には、芝居小屋のネットワークの一つである熊本県山鹿市の八千代座の調査に行きました。今でも八千代座桟敷会の人たちとは交流があります。山鹿への取材は、地元でインテリアデザイナーをしているボランティアの人が案内してくださいました。山鹿は温泉地で、道後温泉を模した建坪倍以上の広さの湯治場があったんです。今は再び木造の立派な湯屋に再生されていますが、僕が訪れた頃は、味気ない施設に改修されたところでした。
今の風格ある八千代座の復興は、歴史ある湯治場を壊したことを悔やんでいた年配世代と、若者たちが中心となって、寄付を募って復興したものです。国の重要文化財の指定を受けて改修されました。僕が最初に八千代座を訪ねたときには、興味深い芝居小屋だけれど史料がないなあと思っていました。それがいざ帰ろうとしたときに、市役所の担当の方がどさっと史料の入った段ボール箱を持ってきて「持って帰っていいですよ」と言ってくださったんです。あとで聞いたら「この人本当にちゃんと研究する気があるか」と、試していたようです(笑)。地域の人たちはそれぞれの思いをもっているから研究・調査は、すんなりいくわけではないですよね。ほかにも色々な所で試されましたね。ここまでの研究は歴史の範疇。歴史研究者といえますね。だけど、劇場と文化施設全体の研究としてはまだ半分。全体像を提示するには現代のことも書かなければと「文化施設がまちを作る」という切り口でも原稿を書きました。長野県の茅野市民館の市民協働や久万美術館、松山市民会館や、松山市の坂の上の雲フィールドミュージアム構想など、自分が関わってきた文化施設についても執筆しました。やってきたことは、すべて無駄にはならないですね。淡路人形座の調査や各地のまち歩き、美術館通いだって無駄じゃない。ネットワークになっています。
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「誰ファースト」で動くのか?現場を経験してこそ見えてくる
—長野県の茅野市民館では、長年コアアドバイザーを務めていらっしゃいましたね。
徳永:長野県茅野市の茅野市民館には2005年からコアアドバイザーとして、17年間、関わってきました。旧市民会館の老朽化に伴う建て替えで、新たな施設の計画段階から関わって、徹底的に市民を巻き込んだ場作りを重ねてきました。1999年に学識者や市民による「茅野市の地域文化を創る会」が発足。茅野市役所にも「パートナーシップのまちづくり推進課」という部署があり、市民と行政が徹底的な対話を重ねて開館に至りました。僕は市長も参加する会議に開館前から立ち会うようになりました。「茅野市の地域文化を創る会」が中心となって、県内視察と、市に寄せられた提案やアンケートなどを用いた9回のワークショップを実施して、基本構想素案がまとめられました。そのあと、建設がはじまり管理運営計画が策定されたあとに、関わることになりました。市民協働は最初からスムーズにいくものではなく、市役所担当と市民の代表、それにスタッフ予定者との運営協議会は1年に50回に及ぶこともあったと聞きます。その熱量のなかに、よそ者が飛び込んだわけですから、始めはしょっちゅう、話し合いに出向くことになりました。会議も夜中まで長引くこともありましたね。大変だったけれどここでやってきたことは、後の活動にも役立っています。また共にアドバイザーをした舞台技術の分野ではベテランの有名な方からは、現場での話をいろいろと聞くこともできました。茅野市民館で、市民協働のワークショップを担当した経験は、カコアでの市民講座でも生かされました。例えば、当日事業ができない、よんどころない事情が発生した場合の切り抜け方とか、学校では教えてもらえないことを、アートマネジメントの講座の最後の締めにやっています。もしアーティストが公演当日に来られなかった場合はどうすればよいか?体調不良や家族の病気や出産などで帰っちゃったと、当日の朝や前日の晩に知らせが届いたとしたら、主催事業をどうするのか。大規模な事業を簡単にキャンセルしたら、大金を失ってしまいますね。どう切り抜けられるか?それをやるのが、中間支援の役割の一つだと思っています。
こういう時に「誰ファーストに考えているのか?」というのが浮き彫りになりますね。事前にチケット等にアーティスト変更の可能性や、払い戻しができない旨を書いてあったとしても、お目当ての人が出ないのだったら行かないっていうお客さんもいるし、その人たちに何の手当てもせずに払い戻さなければ、次に来なくなって、信頼関係がなくなってしまいます。払い戻ししないと書いてあっても、払う必要性が出てくる場合もあります。アーティストか、お客さんか、スポンサーか。誰ファーストで、どこに寄り添うのかは、正解はないのですが、突き詰めて考えておかないといけないんですね。こういうことは大学の教員時はあまり考えていませんでした。大学にいると理想を追求するし、現場に寄り添うとバイアスがかかってしまうけれど、現場を経験すると、良い悪いは別として、現場は理想とは違うっていうことがわかりました。
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カコアのプロジェクト これまでと今後
—設立から20年を迎えたカコアの活動を振り返って思うことは?
徳永:カコアの取り組みも、すべてスイスイ来た訳じゃないです。結構綱渡りをしてきました。調査に行っても地域の人たちとの関わり方でも悩みましたし、自分たちがやっていることが、今どっちを向いているのか分からなくなったり、このまま本当に続けていて大丈夫か不安になったりもしました。2004年にNPOを設立しましたが、ちょうどその頃から、全国アートNPOフォーラムやアサヒアートフェスティバルなど、全国のアートNPOのネットワークができました。全国に自分たちと同じような悩みや思いを持っている人たちがいて、お互いに交流することで、自分たちの問題が見えてくる部分もありました。
また、指定管理者に手を挙げれば?とか、しっかり事務所を作れば?と言われたこともありますが、それで短期間に華々しく散るよりは、しぶとく続けるほうが性に合ってるよねと、カコアメンバーとはよく話します。リーダー頼りないしね(笑)。
—そんなことはないでしょう?
徳永:いや僕は強いリーダーシップはとらないと決めているんです。カコアの事業には、ほぼ毎回参加していますが、各プロジェクトは、毎回リーダーを決めてその人中心でやっています。何人かだけが仕切っているというのではなく、それぞれのメンバーが主体的に次に何をやりたいか考え、リーダーになって活動できるように取り組んでいます。リーダーは経験値で差が出ますし、コンセプトを作るのは皆のミーティングで決めていますが、「僕のやりたいことはあまりやらないからね」と、ずっと言っています。
メンバーが様々なプロジェクトを経験していると、こんなアクシデントが予想されるとか、子どもが参加するときの注意点など、情報をシェアできます。お互いの経験値を足していくことで、割と簡単にプロジェクトリーダーになれるんです。こうやって現場に関わり続けることで、様々な仕事が来るようになるし、外の人との交流も広がって違う世界を知ることができます。アーバンデザインセンターで開催された「カコア20年の歩みチラシ展」
三津のアートイベントなどを映像で紹介。当時のイベントを振り返る
今後もカコアの活動は続きますが、今のところ事業は拡大しない方向です。ということは、自前で稼ぐ手段はないということです。大きな事業をすることが厳しい時代が来て、補助金がなくてもやろうと思っているのは考え続けること、すなわち座学や勉強会です。組織が小さくなっても、一人でも、メンバーの志向に合ったものをなんとか資金を確保して、できる範囲でやれることをやろうと考えています。そこが最終撤退ライン。多少地味だけど何かしているな、と思ってもらうことも大切だと思っています。
カコア設立当初から言っていますが、我々は長く続けることがいいとは思っていません。僕がずっと理事長をやっているのはよくないことだと言い続けています。理想はイベントに来た人が、「私も主催者になろう」と思ってくれて、「自分たちのNPOだったら、カコアよりもっとうまくやれる」といって、蹴落としてくれれば地域にとっては一番いいですね。これで僕らも気持ちよく引退できます(笑) -
中間支援に大切なのは「誰のために、何をやるのか?」
—中間支援の役割ってどのように考えていますか?
徳永:ここ10~20年は、ずっと中間支援のことを考えています。やっぱりソフトとハードの両輪が必要ですね。地域に、そこが好きな人だけいてもだめだし、アーティストだけいてもだめ。それをつなぐのが中間支援。僕らは「好きでやっているんでしょ」と、しょっちゅう言われますが、「うーん、好きでやっているわけでもないですけどね」という思いです。大切なのは「誰のために、何をやるのか?」。中間支援をやる側が、どういう思いで取り組むかを考えていくことも必要だと思っています。
まちづくりもある意味、中間支援ですね。地域の人からみたら、大きなお世話と言われることがあると思います。当然、大きなお世話だけど、中間支援の立場から、そこをどうにかしたい、もっと魅力を知ってもらいたい、と思った時に、それぞれの自主性、自律性を保ちながら、一緒にやれることがないかを見つけていきます。「ここにはもっと良いところがありますよ」と言う人がいてもいいのではないかと思っています。
また、こういう取り組みは、すぐに効果が見えるものではありませんが、最近は1年以内に、3年以内になど、期間を設けて結果を急かせる傾向に。個人レベルで我が身を振り返った場合でも、あの時、こういう事があったから今があると気づくのは、随分年月が経ってから分かるものです。地域レベルのことはなおさら、短期間で成果を求めず、ある程度、長い目で見届けてもらいたいですね。
そういった長いスパンの取り組みの中で、中間支援の担い手も育って欲しいです。劇場や公共文化施設などの「場」も中間支援を担っていると思いますが、この「場」とは、建物が立派、奇抜ということだけではなく、そこに集う人や構成でも変わってきます。その中で、中間支援の担い手も受け継がれていって欲しいですね。時間があって、地域があって、組織があっても、イベントをやりたい人、好きでやっている人だけたくさんいても、うまくはいかない。だからそれぞれの立場の人が交流する場と、繋いでいく中間支援の人の存在が大切です。2025年1月13日、内子座での耐震改修前、最後の一般公開の講座の様子
—中間支援の人がいてこそ、実現することが結構ありますね。アーティストや地域の人が「なんとなくこれがやりたい」とぼんやり思っているままの状況って結構あるのでは?
徳永:できないでいる人が大半だと思います。だからプロジェクトができるよう「そっと背中を押す」のが中間支援。いや、押すっていうか、押しちゃダメなんだけどね。ボランティアでお手伝いしたいという人はありがたいし、いっぱいいるけど、責任も伴うものです。中間支援に関わること自体へのやりがいを持っていないと、続かないんです。—徳永さんご自身の中間支援へのやりがいはどんなことでしょう?
徳永:僕のやりがいで言えば、一番ベタな話をすると、普通には話ができないような立場の人たちと、ごく普通に話をしたり、年賀状のやりとりをしたり、ご案内状を出し合う、というような交流が、結果としてできるようになりました。それが別にどうというものでもありませんが、メディアで見て知っている人以上の関係性を築けています。
出会いのきっかけの多くは内子座のご縁です。あそこで公演したいからと自ら志願して出てくださった人もいます。内子座の本を出した時には、内子座を度々訪れていた竹下景子さんが写真付きで帯を書いてくれました。また内子座落語まつりには、著名な落語家さんがたくさん訪れました。桂米朝さんは「一度舞台に立つと芸が変わるぞ」と言って一門での公演を内子座で開催され、出演いただいた落語家さんたちが、内子座のファンになってくれました。
ほかに中間支援を通して出会ったのは、岡山で開催している、森の芸術祭の地元責任者でアーティストの太田三郎さん。岡山県北の農村舞台の調査にいった時に訪れた奈義町現代美術館で、ちょうど展覧会をやっていた太田三郎さんがいらっしゃって。紹介されて以来、カコアのプロジェクトでワークショップなどをやっていただいて、今でもお付き合いが続いています。これも中間支援というのをやっていなければ、また文化施設に関わっていなければ、出会って一緒にやることはできませんでした。みんなそれぞれに異能の人たちで、アーティストってすごいと思います。また支えるスタッフもすごい。ある舞台技術の方は、深刻な体調不良にもかかわらず「たいしたことないよ」と、イベント本番を乗り切って懇親会まで付き合ってくれたことがあります。「舞台技術の一番大切な役割は、本番初日の幕を決まった開演時間に開けること。何があっても、いかにイベントをやり遂げるかを最優先に考えるという姿勢において、中間支援の役割も同じですね」。と話したことがあります。
—アーティストさんやその道の専門家とディープに交流を重ねると、気持ちも同調してきますね。中間支援の立場もエッジに立っている感覚がありますね。
徳永:そうだね。周囲に迷惑をかけるかもしれないけど、何よりエッジに立つ方が楽しいからね。ライブ感もあって面白い。こういう緊張がないと楽しくないですよね。だから、研究室だけにとどまらなかったのは、そんなに悪いことではないと思います。ずっとそこにいればよかったという思いもなくはないけど、今のほうが楽しい人生だったなと思います。エッジ感を含めてね。 -
文化・芸術は食い違いに救いがある
—徳永さんが最近考えていることってどんなことでしょう?
徳永:最近考えていることは、中間支援のことと、もう一つ、文化・芸術じゃないとできないことって、沢山あるなということです。例えば、僕とあなたじゃ、好みのダンス、いいなと思う作品は違うと思いますが、違っていていい。それが大切じゃないですか。僕が「踊りに行くぜ!!」(JCDN)の選考委員をやっていて面白かったのは、こういう気付きがあることでした。違う人の話を聞くと気付きもあるし、話を聞いてもやっぱり違うと、思うこともある。直感ですごくいいなと思う作品もあれば、見ていてだんだん印象が変わってくる作品もある。文化・芸術は、違っていてもOKという世界。世の中、みんな推しがいるでしょ。推すには、それなりに理由がある。それを担保している数少ない分野が文化・芸術だと思います。
そういうのは自分の学生時代からあって、ベートーベンの運命と言えば、みんな「ジャジャジャジャーン」をイメージしますね。当時はレコードで入手できるものが常時50種類くらいあったそうです。50のレコードには、それぞれにファンがいて、ほんのわずかな差だけど、それぞれのファンが他のレコードを認めないって言い合っていた。でも翌日は、一緒に楽しく仕事をするんです。個々にどれが推しなのか、理由がある。そういうことって大切だし、文化・芸術の魅力です。—アートの意見の食い違いは、真のいさかいにはならない。救いがありますね。
徳永:前提として、みんな好みが違うってことですね。みんなが同じものを支持していたらちょっと気持ち悪いじゃないですか。そんなファンって大体すぐ消えてしまうんじゃないかな、ゴメンナサイ(笑)。最初からそれぞれのチョイスが違っていていいんだよと言われる世界って、比較的、生きやすいのでは。文化・芸術は、経済原理には全て還元しにくいから、ややこしいのだけど、だからこそ楽しいですね。
さらに、歴史的なフレーバーがかかると、この人は、実はアバンギャルドだったというのが後から発見されることもあります。ベートーベンやゴッホも後世にその真髄が見いだされたと思います。同時代に人気があるものだけ残せば良いわけではないですね。安易に捨てちゃダメ。その当時は無駄と言われていたものが、現代に多様な側面から評価されているものもたくさんあるんです。簡単に「壊す」のは考え直して欲しい。今の目で見て、面白いよねと、改めて注目されているものが各地に各分野にたくさんあります。
(取材:2025年1月28日)
徳永高志
1958年岡山市生まれ。博士(文化政策学)。
日本近代史研究を礎に、19世紀末に成立した地域の芝居小屋研究に取り組み、文化施設の歴史や運営にも関心を持つ。松山東雲女子大学教員を経て、2004年に、アートと地域の中間支援を目指すNPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ(通称QaCoA)を設立。
現在、QaCoA理事長。内子座、町立久万美術館のほか、伊予市、松山市、神戸市、飯塚市等の文化施設計画・運営や文化政策にかかわる。松山市文化創造支援協議会の構成団体として、設立当初から取り組みに関わる。
これまでに愛知県立芸術大学、神戸大学、慶應義塾大学等で講師として後進の指導にあたる。著書に、『芝居小屋の二十世紀』(1999年、雄山閣)、『公共文化施設の歴史と展望』(2010年、晃洋書房)、『内子座』(2016年、学芸出版社)など。

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