- VOL.010
- 2022.03.04 UP
- 越智政尚、Bonami さん
- 本の轍
松山で青春時代を過ごした方から、在りし日の街の話を聴くのが好きです。過去の意外な繋がりなどが見えてくると、街の解像度がグンと上がります。
「若い時、本の轍のBonamiさんがされてたお店に通ってて・・・」という話を何人から聴いたでしょうか。語ってくれるのは松山の個性的な店舗の店主さんが多く、もう四半世紀以上前のことなのに、一様に特徴的な陳列と商品の品揃えについて語られるBonamiさんのお店にとても興味を持っていました。
地方都市に住む若者にとって、店主の個性が反映された品揃えの雑貨店や書店、レコード店、服屋などがあるということは、原体験としてとても重要なことではないかと思います。それは、文化の幅や奥行きを知る入り口の役割となることに加えて、物理的にそのお店があることによって、自分が好きなものを好きでいてもいいという肯定されるような気持ちになるからです。
コロナ禍での図書館の臨時閉館、図書の購入補助券の配布、街中にあったジュンク堂や明屋書店本店の移転など、ここ最近の松山の本をめぐる状況には様々な変化があります。そんな中、市内の閑静な場所で小さな本屋を営む本の轍の店主ご夫妻にインタビューをしてきました。
インタビュアー:鯰川 多ヌ吉
取材協力:本の轍
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本の轍を始めるまで
―本の轍を始めるまでのことについて教えてください。
Bonami:私は広島県出身です。高校時代、雑誌『宝島』などで文化屋雑貨店の記事を読んで、暖簾分けしたお店が広島市内にあることを知っていたので、広島市内の洋裁専門学校に入ったのを機に遊びに行くようになりました。専門学校を卒業してバイトでそのお店に入って、そのまま就職しました。
あるとき、松山に新しくお店を出すことが決まり、自分で手を挙げて松山に来ることになりました。店名は、文化屋雑貨店そのままではなく、「東京少年」という屋号に落ち着きました。
その後8年ほどをこちらで過ごした後、転勤で広島へ異動して、そこからずっと広島に住んでいました。―Bonamiさんは広島時代、どんなことをされていたんですか。
Bonami:仕事してる時もあったし、自由手芸家と名乗って、作家活動をやっていました。
ある程度作品を作ったら、個展をやったりとか。ニューヨークでもやったことがあるんですよ。たまたまニューヨークでやってるイベントに作品を送って。その時は、それが実際どういう風に飾られてるか見てみたいっていうことでニューヨークに見に行ったんです。その時にはワークショップもやりました。
毎年テーマがあって、あみぐるみを世界中から集めて展示するイベントで。”あみぐるみ”っていうのが世界共通語になってるんですよね。
最初にあみぐるみで AppleWatch を作った時に Twitter の DM で矢野顕子さんから注文を頂きました。
矢野さんにはプレゼントしたものも含めて3本色違いで所有していただいてて、ありがたいことに取材の時とかもつけてくれて写真にも一緒に写ったりしています。越智政尚(以降、越智):それはBonamiさんが Twitter でAppleWatchの写真を出した時に和田ラヂヲさんがリツイートしたのを矢野顕子さんが見たのがきっかけで。そこから色々繋がりができたりして、ニューヨーク行った時に矢野さんのご自宅にお招きいただいたり、恐れ多くもニューヨークの街を案内してもらったりしました。
越智:僕は松山市出身です。広島の大学を卒業して、一般企業に就職しました。あるとき、広島に東急ハンズができるって噂が出て、絶対に募集があるなと思ってチェックしてたら、新聞に中途採用募集の広告が出てて、それで応募してオープニングスタッフをやることになりました。
将来は雑貨屋さんをやりたかったんですが、若い頃って渋谷のハンズとかロフトとか行って、刺激されるじゃないですか。やっぱりこういうところで勉強したいなと。当初は5年ぐらいいたらいいかなと思ったんですが、結果的にずっと(ハンズで)働いています。ハンズでは接客を中心に管理部門まで一通り経験しています。
ハンズが松山店をオープンする際に地元の人がいたほうがいいということになり、松山に戻って立ち上げに関わることになりました。 -
松山の昔と今
―東京少年のことを聞かせてもらえますか?
越智:高校生の時に東京少年に通っていました。お店の中にいい意味での雑多感がありましたね。映画の中でよろず屋に来たお客さんが「店主あれある?」と言うと、店主が奥から探し出して来てお客さんに渡すみたいな、そんな感じのお店でした。
晶文社の「就職しないで生きるには」のシリーズに文化屋雑貨店の代表(長谷川義太郎さん)が書いたもの(がらくた雑貨店は夢宇宙)があって、僕たちの原点の一冊なので機会があればぜひ読んでみてください。Bonami:文化屋雑貨店は例えば普通の軍手にプリントして売るとか、ないものは自分たちで作るという、いわゆるDo it yourselfの精神がありました。
当時の東京少年のラインナップは、本店まで買い付けに行ったり、国内のものは定期的に日本橋の方とか問屋さんを回って色々見つけて仕入れたりとか、香港から仕入れたりもしていました。あとはオリジナル商品の制作もしていました。お店は湊町の風味花伝の近くにあったのですが、その後うどんのアサヒの近くに移転しました。越智:80年代はちょうどラフォーレ原宿松山ができた頃で、東京少年には雑貨があり、古着もあり、尖ったセンスを持った人たちがお店に集まってきていましたね。
高校生の時はバンドをやってたりして、東京少年で買った古着をライブのステージ衣装にしていました。ロープウェー街に「GET」というロック喫茶があって、そこでライブが出来たんです。この店ぐらいの大きさで、目の前にお客さんがいて、演ってる感じです。―どんなバンドをやっていたんですか
越智:ブルースロックです。高校の同級生でメンバーはだいたい4・5人。横一列になって、ドラムセットもちゃんとあるんですよ。お店は2階にあって、お客さんは外にはみ出してました。あの辺はJAZZ喫茶も多くて、同じ建物に入ってたモッキンバードっていう店もJAZZ喫茶だったな。
(ここで、たまたまお店に来ていた常連の田中さん(松山無声映画上映会主催の田中さん)からも一言)田中:当時ロープウェー街ってそうだったよね。 SPUっていう妙なもんいっぱい売ってるレコード屋さんがあったり、雨漏りしそうな屋根が付いててね。なんでこんな綺麗になっちゃったんだろうね。
越智:僕がレコード屋に行ったのは中3の時に髙島屋(当時はいよてつそごう)の駐車場の前にMORE MUSIC ができてからですね(MORE MUSICは現在、大手町で元気に営業中!)。ベストヒットUSAっていうテレビ番組でコマーシャルやってて、輸入レコード屋さんできるんだって言ってて。当時は輸入盤オンリーで 音楽もそういう風に盛り上がってましたね。音楽媒体がレコードしかなくて、本当に好きな人が買って、バンドも盛り上がってたし、ファッションはそれこそラフォーレができて DC ブランド全盛期に入ってそういうお店がラフォーレ以外でも出来ていたり。
ただ、僕はあんまりそういうのに興味がなかったので中の川に「ひげ店」っていう服屋さんがあって、そこは古着じゃなくてアメカジの店って感じですけど。柳井町商店街にも当時はアーケードがあってそこでも色々買ったりしてましたね。もう40年前ですねぇ。そういう小さな店に面白い人が集まってたんですよ。個性的な変な人ばっかりで、そんな小さなお店から文化が発信されてたというか。田中:本人たちは文化を発信しているとかその気は全然ないんですけどね。
越智:みんなその時代時代で好きなことをやってて、後から振り返ってみると、けっこう貴重だったみたいな感じですね。
―当時、そういうところに出入りしていた人で今こんなことやってますという人いますか。
越智:和田ラヂヲさんは漫画を始める前から東京少年に通ってましたね。当時は会社員で、ラヂヲさんもバンドやってて、一緒にGETでライブやってたりとか。
Bonami:陶芸家の石田誠くんはバイトもしてもらっていたことがありますね。
―中学生でレコード屋さんというのはわりと早熟な気がしますね。
越智:当時は宝島という雑誌から色々学んでました。最初に買った宝島がパンク特集だったんですよ。セックス・ピストルズのジョン・ライドンが表紙に載ってて、「えー、何これ!?」って。13歳ぐらいから、ジョー・ストラマーのクラッシュは知ってたんですが 、ピストルズは聴いたことなくて。
それから毎月買ってました。国内や海外の音楽情報とか載ってましたね。他にはミュージックマガジンも毎月買ってて音楽情報はその二つで、宝島はファッションの記事も載ってましたし、かなり影響を受けました。そこから得た情報でレコード屋さんに直行することが多かったですね。―今の十代のちょっと早熟な子がみんな読むメディアとかあるんですかね。雑誌じゃないなら、どこにあるんですかね。
越智:聞かないですよね。どこかに集まってないんですよね。
―情報の摂取の仕方も大きく変わってるんでしょうね。ああいう雑誌はラジオと並行してたじゃないですか。今の子はラジオも聴かないんですよね。
越智:昔は今みたいに情報がブワッてあるわけじゃなかったじゃないですか。自分で好きなものを探しに行って、ピタッと合うものがあったらそこから情報を得てましたね。雑誌からもラジオもそうでしたし。
―現代が情報過多って言いますし、かつての方が得たい情報にアクセスできたんじゃないかな。その結果どういうふうに分散してるのか知りたいですね。
今は中学生とか高校生とかにちょっと背伸びするっていう文化があんまりないのかもしれないですね。レコード屋に入り浸るとか全てちょっと背伸びしてるわけでしょ最初はね。ーお客さんで一番若い年代ってどのぐらいですか
越智:20代ですね大学生ぐらい、 高校生も少しずつ増えてきたかな。この辺学校が多いから通学で前を自転車がバンバン通るんですよ。店始めた時には彼ら来てくれるかなと思ったら来ないんですよ。「あれっ?」て。
ー高校生は何を求めてくるんですかね?なんかよくわかんないところに足を踏み入れるという感覚でしょうか?
越智:親御さんと一緒に来たりとか、一人で来る子は本好きの子かな。学校の図書館にいつも通ってたりとか自分の好きなものがはっきりわかってるような感じですね。図書委員の子とか文芸部の子達とか。書いてる文章とか見せてもらったら高校生でもすごい文章を書くんですよね。本読んでる子は喋ってると子供っぽいのに文章書くとすごいってのがあるんですよね。そのギャップにびっくりしますね。
―恐る恐る敷居を跨ぐような感じですか。
越智:最初はね、でも1回来ると友達と一緒に来てくれたりとか。
―今の子はチェーン店しか入れないって言いますよね。楽だし。
越智:チェーン店じゃない店は入ると大人の人と喋んないといけないもんね。僕が子供の頃はそれがしたくて入ったんだけど、今の子達は多分違いますね。同世代の子達と話しててもそんな楽しくなかったところもあったし、 ちょっと上のお兄さんお姉さんと話したほうが色々教えてくれるじゃないですか。それは良かったですね。
ウチは話しかけて欲しい人は分かるんですよね。挨拶して反応見るんです。手に取った本でしばらく観察しながら一旦話しますね。 -
本の轍を開店した経緯
―本の轍を開店した経緯を教えてください。
越智:2015年にハンズの立ち上げで松山に帰ってきて、いずれ雑貨屋さんやりたいなというのは前から言ってて、東京や京都のいろんなお店を回っていました。ただ、雑貨の仕事をやってるといろんな難しい面も見えてきて、雑貨だけだとちょっとあれだなと思って。
で、帰ってきたときにちょうど坊っちゃん書房が店を閉めて、松山だし文学に関わるようなことをした方がいいかなと思って。広島にいた頃に広島市内や呉とかで定期的に一箱古本市に参加させてもらってたんですよ。
それで、お店作るときは本で行こうと。こういうお店って松山には無かったので、じゃあ僕らが最初に作っちゃおうと。
古本屋さんも女性一人だと入りづらいお店が多いので、わりと明るくして、女性でも入りやすいお店にしようと思いました。だからウチのお店は8割が女性です。
本の轍がオープンしたのは2017年11月9日でした。いずれやろうということは決めていたんだけど、当時Bonamiさんが大きい病気にかかっちゃって、将来やろうと思ったけど、逆算したら好きなことやれる時間がそんなに残されていないので、じゃあすぐにでもやったほうがいいと。―この場所はどういう経緯で?
越智:元々は柳井町が好きだったので、柳井町商店街のあたりで探してたんです。柳井町には浮雲書店さんがあったのでブックストリートにしたいって勝手に思い描いてたんですよね。やってるジャンルが違うので相乗効果もあるのかなと。
1軒検討している物件があったんですが、あまりにも年季が入ってて、状態がよろしくなかったとこがあって、雨漏りがすごくて、本に雨漏りはやばいだろと。どうしようかなと思ってたら、先に他の方に契約されちゃって。
で、またどうしようかなと考えてたら、ここが。ここはもともと三番町で凸凹舎をやってる羽歩さんがあって、現在の場所に移転されて空いたので、ここを借りようと。奥にある友人のジャム工房「朗−Rou−」さんから、自分だけだと広すぎるので、一緒にどうかって誘っていただいたんです。2店舗で家賃とか費用を折半して、シェアして使っています。
僕が最初にやりたいなと思ってたのは、ライブやったりとかもっと広い空間が必要なんですが、最初はこれぐらいでと。ここでトークイベントとかやってもいるんですが、GETじゃないけど、ぎゅうぎゅうなんですよ。今はコロナでちょっとやれないですね。―お店はお二人の趣味が色濃く出ていると感じますが、どういうものを好まれてたんですか。
越智:二人の趣味はバチッと合ってましたね。カルチャーはカルチャーなんだけど、どっちかというとサブカルチャーですね。暮らしに関わる事だけどちょっと外れてると言うか。ウチは長編小説はあんまり置いてなくて割と読みやすいエッセイとか随筆とか。あと絵本が好きで、絵本は子どもから大人が見ても楽しいので割とそういうビジュアルよりで。本格的な小説はそれこそトマト書房さんのような他店にお任せしておけばいいので。
今は本離れが進んでるので、手に取りやすい、装丁がいいものだとか興味をもっていただけるようなものですかね。
ベストセラーというよりはロングセラーの本です。だから近隣の紀伊国屋書店で買えるような本はウチはあまり置いてないんです。
僕は植草甚一さんが好きなので街歩きの本とか食べ物に関するものとか、池波正太郎さんも好きですし。社会派と言うか、社会にスッとメスを入れるようなルポルタージュとかそういうものは得意ではないですね。Bonami:私は旅行記だったり、人物史だったり。 お店には置いてないんですけど家にはたくさんあります。読んで実際に行ってみたりとか、林望(リンボウ)さんとか好きでイギリスに行ったこともあります。本を読んで現地に行くとか、 何かのきっかけになるようなものが好きです。
―本の轍はお二人が好きなものを並べてるという感じですか?
越智:それもそうですが、品ぞろえはウチに来てくださっているお客様が決めてるという感じですね。僕らが置きたいものもありますが、全て僕らが並べたいものというより、来てくれるお客様の顔が浮かんで、こういうのが好きそうだなと思って入れるようになったものもあります。
―ネバーランドダイナーのスピンオフ企画はどういう経緯で松山が第一号としてやることになったんですか。
越智:これはケンエレファントっていうカプセルトイとか作ってる会社があって、いろんな事業をやっている中で 出版の部門をやってみようということになって作ったのがケンエレブックスというレーベルで、その第1弾である加賀美健さんの『くっつけてみよう』という本でフェアをやったんです。それから都築響一さんの『Neverland Diner―二度と行けないあの店で』のフェアにつながっていくわけですが、担当の方と色々やり取りしてる中で、この本を売るために販促用としていろんな街のバージョンもできないかという話が出て、取りまとめてもらえませんかという依頼が来たので、書く人を選んで写真も撮って構成もやってっていうことになったんです。確かに昔のことを思い出したりする作業って懐かしくもあったり、逆に新しいものを感じたりとかすごい楽しかったんですけどこれを作ってみて改めてこっちも読むとやっぱりみんな面白いんです。
ネバーランドダイナーの本編は都築響一さんも書いてますし、佐久間裕美子さんとか大竹伸朗さん、今話題のくどうれいんさんも書いてるし、そうそうたるメンツなんです。全然自分の知らない店だし、もう二度と行けないんだけれども、当時のそういう空気感とかがこの本からわかるんです。
だから、松山編も通販でも凄く売れてていろんな県の人がこれを注文して買ってくれています。以前松山に住んでて結婚されて東京に住んでるという方が懐かしんで買ってくれたりとか、「どこの店入ってますか」って聞かれるんですけれどもそこで教えちゃうとつまらないので。
全部で10都市ぐらい出るんですよ。今、広島、大阪、高崎が出てて、広島は 広島T-SITEの蔦屋書店さん、大阪はスタンダードブックスさん、高崎はREBELBOOKSさんが取りまとめられていて、お店ごとに表紙の色を変えてるんです。たとえば広島はサンフレッチェカラーの紫ですね。
初めてこういうのに関われたのですが、もともとお店から出版というのをやりたかったのでよかったなあと。今、本屋さんでそういう動きが出てきてるので。―本屋さん同士の横の繋がりとかはあるんですか?
越智:本屋さん同士の繋がりだったりとか小さな出版社との繋がりがすこしずつ出来て来ています。この木楽舎さんっていう出版社さんから出ている「ぼくにはこれしかなかった。」という本は、ウチと同じ時期にオープンした盛岡のBOOKNERDさんという書店の店主が書かれたもので、帯に僕のメッセージも入れてもらっています。重版がかかって、現在は3刷ですね。
店主の早坂さんとは、僕らがお店を出す前にニューヨークに行って仕入れみたいな感じで向こうでいろいろ買ったりしてたので、インスタのDMで自分もこれから行くんだけど現地から本の送り方とか教えて欲しいっていうのがきてそれからのお付き合いです。BOOKNERDさんはくどうれいんさんのリトルプレスを出してめっちゃ好評で、これまでに1万部売れたらしいです。 -
これからのこと
-将来的なビジョンはありますか。
越智:将来的にはですね、二人でこの店を確立させていきたいですね。今は木金土の週3日しか開けてないですからね。展示やるときは月火もあけてますけど。
―越智さんはどんな働き方なんですか。
越智:職場には届を出してやってます。月に10日ほどは休みがあるんですよ。年休もあるので。でも、体は一つで時間は限られてるから、本当は100%こっちに自分の力を入れたいんですけど、向こうの仕事も時間の拘束がそこそこ長いので、帰ってきて夜やって、夜中になったりするので体力的にしんどいなと思ったりしますね。
こっち一本だけでなんとかやっていきたいんですけど、仕事辞めちゃうとぐっと収入は減りますし。でも、その分(Bonamiさんと)一緒にいる時間は長くなりますし、さっきも言ったように逆算したら残りの時間は短いですから。果たして何が幸せなのかという生き方を考えたいなと。―生業として若い人が始めたいと言ったら、どうでしょう。
越智:松山の場合は店売りだけだと厳しいですね。ウチは通販もやってますし、お店と通販とイベントとかやって、いろんな複合で利益出していかないと難しいですね。あとは固定費をいかに抑えるかということでしょうか。何にせよ、貯金はしておいた方がいいです。
―エリアとしてこういう風になったらいいなというのはあるんですか
越智:銀天街からは一つ二つ通りが離れてるし、柳井町とも少し離れててちょっと寂しいので、勝手に市駅裏プロジェクトとして盛り上げようと。
隣のビル「学と芸 七分」では月替りでイベントをやってますね。場所を共有していたSa-Rahさんが撤退されたので、スペースを活かさないともったいないということで、学びと芸術を発信していく場にしたいと。(七分 主宰の)杉浦さんご夫婦とはもともと仲がいいので、一緒にご飯食べたりとか、インスタライブやったりね。「七分と轍のあいだ」っていう番組名で今は月一ぐらいですかね。30分番組ですが、突然始まりますから。ぼくも杉浦さんも映らず、杉浦さんが作った人形を写してます。要はラジオ風に聴いて楽しんでいただけると嬉しいなと。
この1〜2年、人の身体は時としてウイルスを持ち歩く器になってしまい、身体の移動を伴わないリモートワークやメタバースなどが私たちの生活に急速に浸透していきました。物質としての身体について考えさせられる時間でした。
本について言えば、物としての本について考えさせられる時間はさらに前から続いています。情報が印刷されているという本の特性上、電子書籍やオーディオブックの普及は必然であり、加えて昨今は身体を書店に運ぶことの障壁もあり、ネット通販の優位性も高まっています。
一方で、インタビューでも紹介しましたが、本の轍の店主ご夫妻は商品や展示物とお店との間にある物語や商品の持つ文脈をとても大切にされていて、その物がそこにあることの必然性を感じることができます。本の轍で本を購入することは、ネット通販や電子書籍とは一味違った、本の轍ならではの物語や文脈を体験することへの価値があると思います。
そして、そのような身体性を伴う体験が蓄積され、時間を超えて編集されながら継承される連鎖があちこちで起こることで、街の文化が作られていくのだと思います。
技術は進歩しますが、頻発するネット上での誹謗中傷や炎上騒ぎを見ていると、同じ街で顔を合わせられるような身体性のある関係はいまだに重要です。私たち市民が街の文化を形作る当事者として、文脈の連鎖を生む本の轍さんのようなお店を大切にしていきたいものです。追記:なお、越智さんは2022年3月末に東急ハンズを退職して、本の轍にもっと注力されるため、営業日が増えるそうです!
(取材:2021年8月27日)
越智政尚、Bonami
- 本の轍
越智政尚(おち・まさなお)
本の轍 主宰。
愛媛県松山市生まれ。松山市在住。
地元の高校を卒業後、大学進学に伴い広島へ。
卒業後は一般企業に就職し、1995年、東急ハンズに転職。
2015年、転勤により帰郷し、松山店の運営に携わる。
2017年、松山市内に独立系書店「本の轍 -Book On The Tracks-」をパートナーのBonamiと立ち上げ、会社員との二足の草鞋を履きながら、新刊・古書の選書や企画・運営に関わる。
2022年の春、東急ハンズを退職し独立。
趣味は自転車に乗ることと、レコードを聴いたり、映画を観たり、暮れゆく空を眺めながら物想いに耽ること。
愛読書は植草甚一の『ぼくは散歩と雑学がすき』。
Bonami(ぼなみ)
自由手芸家。
広島生まれ。 愛媛県松山市在住。
80〜90年代は文化屋雑貨店 広島店〜松山店(※東京少年)で雑貨の販売に携わり、雑貨ムーヴメントを体験する。
2014年より、編み物活動を開始。
2015年、minneハンドメイド大賞で、編みりんご 「世界一周トラベリンゴ」が「日本編物工業株式会社賞」を受賞。
ニューヨークで、作品展示とワークショップを実施。
2019年11月、渋谷パルコ リニューアルに伴う「ほぼ日曜日」での展覧会『アッコちゃんとイトイ。』に参加。
2017年より、独立系書店「本の轍-Book On The Tracks-」を夫婦で営みながら、多岐にわたって活動中。
好きな映画はジャック・タチの『ぼくの伯父さん(Mon Oncle)』
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