- VOL.005
- 2020.03.21 UP
- 杉本 恭 さん
- 地産地消アーティスト
あるときは杉山田スギオ、あるときは芸人ぽん、あるときは新聞屋さん。かつては東京での芸能活動をはじめ愛媛のマスメディアにも数多く出演していた杉本恭さんは、いまはマイペースに「地産地消活動」をゆるく続けています。ヘンテコなバンドを組んでは突如ライブハウスや劇場に現れ、あるいは若い学生たちにお笑いライブの場を提供し、シニア劇団の指導も買って出て、「クロヌリハイク🄬」の普及にもいそしみ、父親として二人のお子さんにとっての「ゆるい道しるべ」ともなる。パーマをあてる多芸多才な地産地消アーティスト、杉本さんのこれまでと今を語ってもらいました。
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喜劇役者を目指して東京へ
今考えると、子どものころから何かしら表現することが好きだったんだと思います。マンガを描いたりもしてましたし。でも、自分の考える面白ことは一般ウケしないという自覚はありましたね(笑)だからクラスの人気者というわけではないけど、一部でわかってくれるひともいる。今と同じですね(笑)高校では映画っぽいビデオ映像を撮ったりしていて、映画を作りたいなと思い九州芸工大(現在は九州大学)に進学しました。大学ではコントのような芝居を作っていました。それで卒業したらコメディアンになることを目指して東京に出ます。
シアターねこにて取材に応える杉本さん。真面目な雰囲気。(撮影:浦川健太)由利徹さん(※注1)の弟子になりたくて家まで押しかけたんですよそしたら由利さんが出てきて「見ろ、こんなに弟子がいるんだ」って断られました。四人くらい弟子がいるんですね。その弟子たち、みんな四十代くらいなんですよ(笑)。諦めまして、結局、外波山文明さんが主宰する「はみだし劇場」(※注2)の座員になることになりました。弟子入りを断られた由利徹さんとは外波山文明さんも出演していた新宿コマ劇場の公演でお会いすることになって「お、そっちの方がよいよ、頑張れ」って言われました(笑)。「はみだし劇場」では、野外で舞台を組む仕事ばかりやりましたが、舞台にも出演しました。同じ頃、水谷龍二さん作・演出の「星屑の会」(※注3)の舞台の裏方を手伝ったことをきっかけにしてラサール石井さん(※注4)の付き人をやることになります。それで石田光三オフィス(※注5)に所属することになるんですけど、石井光三社長に「お前の芸は10年後に誰かが真似してわかりやすくなってウケる」と言われました(笑)一般ウケしない自覚は子どものころからありましたからね(笑)。ラサール石井さんの付き人は5年やりましたが、当時はテレビにたくさん出ていた頃でとても忙しかったですね。その後、独立して東京で公演ごとにユニットを組んで舞台をやっていました。そうこうしている内に、地元愛媛でも仕事をする機会をもらえるようになり、1995年頃にテレビ愛媛の特番に出演したのをきっかけにして、2002年から3年間、テレビ愛媛の月曜日から金曜日の夕方の帯番組〈お茶どきっ!〉に出演することになりました。この帯番組が終わり、しばらく愛媛の放送局に出演を続けていた頃、父が倒れてしまったんですよ。実家は新聞店をやっているのですが、継ぐことに決めました。これを機に社会人をやりつつ地下でいろいろやるというスタイルになっていくんですね。
パーマをあてて興に乗る杉本さん。 -
クロヌリハイク🄬
新聞屋さんの仕事をきっかけに作った遊びが「クロヌリハイク🄬」です。新聞を黒塗りにして文字を拾って詩にしていくというアメリカのアーティストの作品があってとても面白いなと思ったんです。これを日本でやるんだったら俳句だよなと思いつきました。「クロヌリハイク🄬」はハイクライフマガジン『100年俳句計画』(※注6)に連載したのが始まりで、それが愛媛新聞に取り上げられて一躍知られることになってしまいました。サブカルだったのに、いまや学校やさまざまなところでワークショップをするようになりましたね。「クロヌリハイク🄬」は子どもがやると面白いんですよ。逆に、俳句をやっている大人は考え込んじゃうんです。デタラメにやるから面白いんです。
新聞記事を黒塗りにして文字を拾っていく「クロヌリハイク🄬」 -
お笑い就職活動
仕事があまりない時に妻に「就活してよ」と言われて(笑)、〈お笑い就職活動〉というライブを始めました。現在まで続いていて、次の公演が59回目になります。もうやめようかなと思っても、ライブの会場としてお借りしているシアターねこの鈴木さん(※注7)が「とてもよいことだ」ってやめさせてくれない(笑)。初めのころは自分のネタをやって、前座に学生が出ていたんですけど、現在は学生だけでが出演しています。愛媛大学と松山大学の落語研究会の学生たちが中心で、社会人になっても出演を続けている人もいます。毎年、一組くらいは芸人を目指して卒業後に東京や大阪へ出ていくんですよ。M-1グランプリ(※注8)の敗者復活に進むくらいまでの子はいますね。芸人にならなくても、お笑いをやっているとコミュニケーション能力が高いので営業職にも向いているんですよね。たまに地元の企業の忘年会とかに呼ばれることがあると、社長さんたちは「若い子が来てくれない」って嘆いているんですけど、「じゃあライブに来てください。営業向けのいい子がいますよ」っておすすめしています(笑)。
〈お笑い就職活動〉で司会をする杉本さん。 -
杉山田スギオとスウィートメモリーズ
杉山田スギオとスウィートメモリーズは始めてかれこれ10年以上経ちます。仕事がなくてヒマだったときスナックで松田聖子を低音で唄ったらウケたんですよ。それでスタジオOWLのマスターでギタリストの高橋孝雄さん(※注9)を口説いて、二人で流しのようにライブハウスを転々とまわって松田聖子を唄うというところから始めました。現在は大所帯になって登録数は26人くらい(笑)コーラス、ギター、サックス、ベース、アコーディオンといろいろパートはありますが、フル編成はめったにありません。練習はやるんですけど、サロンみたいになっていてお茶飲んで帰るみたいな(笑)。
コーラスとバンドを従えて熱唱する杉山田スギオこと杉本さん。
時にはアクロバティックに。 -
遊ぶように、ぬるく、ダラダラ生きる
シアターねこの鈴木さんには「プラチナねこ」というシニア劇団の指導も頼まれています。世代は五十代くらいから女性ばかりなんです。仕事と子育てをしていたらお父さんはなかなか出て来られないんですよ。ぼくも仕事も趣味もぎりぎりのところをだましだましいい加減にやってます。新聞屋さんの仕事は朝に配っておけばなんとかなるんで(笑)。あ、でも、他のことは趣味なのかな?部活動?うーん、遊びですかね。ゴルフみたいな?
新聞屋は地域を任されているんで、地域コミュニティとのつながりがあるんです。だからイベントの時にボランティアで司会をしたりしています。そういう機会が、顔を売ることになって営業活動にもなっているのかな(笑)。他にもPTAやおやじの会とかいろいろやっていますけど、全部、いい加減にやっているんですね(笑)。ぬるくやっている(笑)。春から高校生になる娘に「父さんはどういう生き方してるの?」って訊かれたんですよ。「ぬるい感じ」って答えたら「そうだよね」って納得していました(笑)。松尾スズキさん(※10)の本に『ぬるーい地獄の歩き方』(文春文庫)っていうのがあるんですが、付き人というぬるい生き方をテーマにした松尾さんと僕の対談が載ってるんですけど、とにかく、今もぬるく生きています(笑)。全部、ダラダラ続けていきたいですね。※注1 由利徹:1921年‐1999年。昭和を代表する喜劇役者。
※注2 外波山文明:1947年‐。俳優、演出家。劇団「はみ出し劇場」を主宰の後、現在は劇団「椿組」を主宰。
※注3 水谷龍二:1952年‐。演出家、劇作家。演劇集団「星屑の会」主宰。
※注4 ラサール石井:1955年‐。タレント、俳優、演出家。コント赤信号。
※注5 石井光三オフィス:芸能事務所。ラサール石井も所属。
※注6 ハイクライフマガジン『100年俳句計画』:松山市の有限会社マルコボ.コムが発行する月刊誌。
※注7 シアターねこの鈴木さん:松山市の小劇場「シアターねこ」の代表の鈴木美恵子さん。
※注8 M-1グランプリ:吉本興業主催の若手漫才師コンクール。
※注9 スタジオOWL:松山市のライブハウス。高橋孝雄さんがマスター。
※注10 松尾スズキ:1962年‐。演出家、劇作家、俳優、映画監督。劇団「大人計画」主宰。
(取材:2020年3月11日)
杉本 恭
- 地産地消アーティスト
1971(昭和46)年10月24日、松山市生まれ。九州芸術工科大学(現在は九州大学)芸術工学部画像設計学科を卒業後、上京。1996年、ラサール石井に弟子入り。愛媛出身ということで、芸名「ぽん」を頂く。付き人兼運転手を務めるかたわら、お笑いライブの敢行や、映像作品を制作。2002年、地元愛媛に戻り、テレビ、ラジオ、ライブ、イベント等で活動。 最近はメディアでの活動はせず、実家の新聞販売店(愛媛新聞)で働き、生計を立てている。妻一人子二人。その他、イベントや結婚披露宴などでの司会、地元の劇団へ役者として参加、愛媛から明日のお笑いスターを輩出するためにお笑いライブをプロデュースなどの活動をしている。また、杉山田スギオとスウィートメモリーズというアコースティックバンド(コミック)を結成し、音楽活動も行っている。
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