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- 【特別寄稿】歴史的苦境における日本の劇場(2)
徳永高志(NPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ理事長)
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徳永高志氏(NPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ理事長)による「歴史的苦境における日本の劇場」の2回目を掲載いたします。現在(2020年10月27日時点)、新型コロナウィルスの第2波の影響により、欧州では再びロックダウンになるなど、世界中を見渡すとまだまだ先が見えない状況が続いています。今回の寄稿では、1800年代に流行した伝染病、1900年代の戦争による脅威により、劇場を取り巻く環境がどのように変化したのかが述べられています。また、危機的状況の中でも舞台芸術との関わりを求める人々がいたことにより、現在でも劇場が我々の身近にあるということがよくわかります。過去に起こったことを参照しつつ、現在の状況に重ね合わせて考えることで、これからの劇場の姿が見えてくることでしょう。
(松山ブンカ・ラボ 松宮俊文)
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1、伝染病に抗して
19世紀にはいると、伝染力のつよい病が社会に危機をもたらすようになった。
1822年、コレラの初めての世界的大流行の余波は日本にもおよんだ。外国との交流が盛んになるにつれて、流行の頻度は増した。開国とアメリカ軍艦の長崎来航にともなう1857年の大流行を皮切りに、幾度も流行を繰り返した。1877年の流行は清国からの伝播が元だといわれ、西南戦争の帰還兵を媒介して全国に広がった。症状が激烈であったため人々に恐怖を与えたことは、当時の新聞雑誌に、「虎狼痢」(「ころり」、ころりと死ぬとの意とも)「虎烈刺」「虎列拉」といった当て字が躍ったことからもわかる。
「虎」という字が入っていることも注目される。「虎」は朝鮮半島や中国東北部で大切にされた動物であり、もともと日本には存在しない。「虎」は開国して間もない日本において、畏怖と恐怖がないまぜになった表現だともいえよう。錦絵にしばしば表現されたほか(写真1)、当時敷設がすすんでいた鉄道(または駅)や街道を通じて集落にコレラが入り込むと考えられて、入り口で鉦や太鼓を打ち鳴らしたり集団で踊ってコレラ退散を願ったという。地域や国など何段階もの排外主義がコレラ流行であらわになった[1]。
旅回りの役者が来訪し不特定多数の人が集まる劇場は、その結節点であった。77年10月2日に大阪府は興行を差し止める旨の府令を出し、これに対し興行主たちは11月7日「コレラ予防の義は幾重にも注意すべくにつき興行お差許し」を願い出て、結局11月11日に興行再開となった。興行差し止めの根拠となったのは77年8月の内務省達「虎烈刺病予防心得」で、これは日本で最初の伝染病対策である。劇場への直接の言及はなかったが、人の密集地への配慮が記されていたことから興行の差し止めにつながったと考えられる。
79年の全国で10万人を超える死者を出した流行では、劇場の再開と引き換えに、コレラ「予防法」が布達された。その中身は、場内の換気、清掃、場内の飲食を控えること、便所の清掃と防臭、飲料水の検査の5か条であった。内容もさることながら、コレラ流行を含む衛生・防疫事務が地方行政ではなく警察が担当したことは将来に影響を及ぼした。地域では、この年を頂点に各地でコレラ一揆がおこった。警察による営業差し止めや患者の隔離に反発し、自らの生活基盤や家族を守ろうとの思いに加え、開国と急速な近代化による生活の変化があった。
コレラの流行が繰り返すごとに、劇場の管理が強化され、警察による強制力が発揮されるとともに、伝染病や火事を超えた全体的な統制下におかれるに至った。これに対して、興行主≒劇場と演者は、一定の妥協をしながら再開を強く望んだ。一方、人々は、流行の起点になりかねない劇場に対する忌避の視線を浴びせたのである。先にも述べた「劇場廃止論」にはこうした背景があった。
コレラは1886年まで流行を繰り返し、いくつもの対策がなされたが、劇場に対しては、1882年に一定以上の規模の劇場に対する「劇場取締規則」と見世物や商品陳列をおこなう施設に対する「観物興行場並遊覧所取締規則」が出され、全国の劇場と劇場類似施設に統制の網がかぶせられた。「劇場取締規則」は12条からなり、①新設・改造・廃止・売買に関しては地方行政、興行に関しては警察に届け出る、②劇場建設場所および数の制限、③劇場構造の制限(火災防止・衛生強化)、④興行内容の監視、⑤便所の清掃・防臭などがその内容であった。この規則は、腸チフスや結核など性格の異なる伝染病が流行するごとに、加除を繰り返しながら、戦前劇場取り締まりの根幹をなした。この間、劇場における伝染病対策は、次第に劇場取り締まり全般に溶け込むかたちで解消されていった。
1918年8月から3年近くにわたって流行したスペイン風邪では、日本で約45万人の死者を出した[2]。劇場においては、たとえば高知県で、1918年11月5日から警察によって二週間の閉鎖が指示され、マスクの着用指導が行われた程度であった。小中学校が3週間の閉鎖に追い込まれたのと比べて軽度な取り締まりであった[3]。
1920年代、日本の生活に劇場は定着し、なくてはならないものとの意識が生まれていた。一方、外国から入ってきた得体のしれない恐ろしいものが悪所である劇場で流行するという意識も払拭できていなかったといえよう。
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2、戦争の脅威
日本の近代は戦争の歴史でもあった。明治維新時の内戦、戊辰戦争のときから戦争はすぐに講談や芝居になり、人口に膾炙した。とくに日露戦争では記録装置としての映画用カメラが持ち込まれ、歌舞伎座などの大劇場では、戦勝記念のドキュメンタリー映画会や連鎖劇(映画に、映画を補う芝居を付与したもの)が盛んにおこなわれ観客を集めた。劇場は当時形成されつつあった国民国家形成に寄与することになったのである。
築地小劇場など大正デモクラシー下の新しい思想や社会運動にかかわる演劇の隆盛を経て、1931(昭和6)年の「満州事変」以降になると国威発揚と戦争賛美に関わる演劇が散見されるようになる。とくに1932年2月の第一次上海事変時には、膠着する戦線を突破するために爆弾をかかえて三人の兵士が突撃して憤死し活路を開いたと伝えられる事件が荒木陸軍大臣に「爆弾三勇士」(「肉弾三勇士」とも)と名付けられ、ただちに一大ブームが起きた。早くも3月6日には歌舞伎になるなど、6月までに、歌謡曲、新派劇、文楽など十数の作品が速成され、人気を博した。
1937年の日中全面戦争以降は、演芸などで同業者組合が舞台衣装を軍服風にするなど、「非常時」を先取りする動きが見られた。同時期に内務省は、映画や演劇の興行時間の短縮等、劇場規制を強化しはじめた。1940年12月には興行取締規則が施行され、「興行場」の限定、興行総量の抑制、俳優等の組織化が打ち出され、新築地劇団への解散命令など劇団への最終的な弾圧がおこなわれた。
同業者組合の自主的な統合も急速にすすみ、多種多様な舞台関係者が、1941年2月には「日本精神を基礎とする新しい興行道の確立」を目的とした「興行報国組合」が結成するに至った。
興味深いのは、大阪府が同時期に国威発揚一辺倒になる劇場興行に対して、演劇脚本の検閲を大幅に緩め、賭博や強請りをあつかったもの以外の古典を奨励している点である。とくに大衆的な演劇・芸能の大半が、政府の意図する以上に国威発揚・戦争賛美に熱狂することにブレーキをかけたのである。ここにいたり、舞台芸術の多くは担い手自らが変質し、検閲の必要のない、芸能と劇場の「非常時」が自主的に完成した。
太平洋戦争開戦後、1943~44年には、大規模なレビュー・歌劇・歌舞伎の規模縮小、興行時間の一層の短縮、オーケストラなどの演奏会では必ず邦人作品を加えること、などが次々と指示された。44年3月5日には、「第一次決戦非常要項」中の「高級享楽の停止」に基づき、歌舞伎座、大阪歌舞伎座、京都南座など全国19劇場が休止された。ところが翌4月には、東京の明治座と新橋演舞場が再開し、大阪歌舞伎座は、大阪府が借りるかたちで「戦力増強館」として復活した。ここでは、戦時色の強いもののほかに家庭劇や古典的な歌舞伎、演芸が公演され、事実上、松竹の劇場として機能した。公演の減少が戦意に影響する、という配慮であった。しかし、1945年に入ると空襲が激しくなり、主要劇場のほとんどは焼失した。
注目すべきは、この時期になっても各オーケストラやオペラ団は「友国」であるという理由でドイツやイタリアの音楽を奏でていたことである。たとえば日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)は2回の東京大空襲後の1945年6月13日と14日に、日比谷公会堂で第267回定期演奏会としてベートーベン交響曲第9番「合唱」を演奏していた[4](N響ステイトメント)。焼け野が原のなか二日間で6000人の聴衆が訪れたという。大阪では焼け残った大阪歌舞伎座では歌舞伎の古典劇が継続して上演され、朝日会館での公演も継続した。敗戦の前日、8月14日まで演芸や文楽が上演されていたのである。
舞台関係者が、戦下の極限的な危機的状況でも、何とか公演を続ける努力をしていたことがわかるし、生きていくのも難しい状況でも舞台芸術を求める人々は絶えることはなかった。
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結びに代えて‐‐危機と向かい合う芸能と劇場
本稿では、火事、病気、戦争に絞って劇場と舞台芸術が向き合ってきた危機を概観してきた。
劇場関係者は、ときに迎合し場合によっては取り締まりを先取りし、ときには抜け道を探したり反発したりしながら、公演を続ける手立てを探し続けてきたといえよう。日本の近代を通して、いかに危機的な状況を迎えようとも、10年20年単位で見れば、劇場と公演は増え続けてきた。戦後になると、1960年代のテレビの急速な普及によって地方の芝居小屋はほぼ消滅したが、1970年代からは公立文化施設という名の劇場機能を持った施設が急増した。2010年ころからのネット配信に対しては、「実演」の意味を減衰させるのではないか、との指摘が散見されたが、実態は、ここ15年でライブ公演は3倍近くに増えている。配信がライブ=実演への誘因になったと考えられる。舞台芸術を望む思いは絶えることがなかったのである。
いっぽう、ここ15年で大きく様変わりしたことがある。
それは、舞台芸術に関わる施設が公共文化施設・公共劇場として地域に支えられるようになった点である。地域に根差した公演や事業をおこなうほか、地域の人々が運営に関わる例も増えている。公立はもちろんのこと、たとえばサントリーホールや博多座のような私立の劇場も次第に公的な性格を帯びてきている。一部は公益財団法人が運営しており、一企業の意向で運営を左右することはできない。ここまで述べてきたように、演じる側と観る側の強い希求によって、歴史的な危機のなかでも舞台芸術は維持されてきたが、今はそれに地域という新たな要素が加わった[5]。
とくに、コロナ禍のなかで、劇場と舞台芸術の役割と必要性について、地域の理解を取り付けながら劇場が地域とともに乗り越えることができるのか、がカギになるだろう。
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[1] この時期のコレラと民衆の意識・行動に関しては、山本俊一『日本コレラ史』(東京大学出版会、1982年)と奥武則『文明開化と民衆』(新評論、1993年)を参照。
[2] 速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争』(藤原書店、2006年)参照。
[3] 「高知新聞」2020年5月17日付紙面。
[4] NHK交響楽団が定期演奏会の休止を告知したステートメント「NHK交響楽団2020-21シーズン定期演奏会について」(2020年6月30日)という「戦時中も続けてきた定期演奏会」という表現がある。
[5] 地域によって支えられた劇場の研究例として『内子座』(学芸出版、2016年)、公共劇場に関して、伊藤裕夫・小林真理・松井憲太郎編『公共劇場の10年―舞台芸術・演劇の公共性の現在と未来』(美学出版、2011年)を参照のこと。
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執筆者プロフィール
1958年岡山市生まれ。博士(文化政策学)。日本近代史研究を礎に、19世紀末に成立した地域の芝居小屋研究に取り組み、文化施設の歴史や運営にも関心を持つ。松山東雲女子大学教員を経て、2004年に、アートと地域の中間支援を目指すNPO法人クオリティアンドコミュニケーションオブアーツ(通称QaCoA)を設立。現在、茅野市民館コアアドバイザー。内子座、町立久万美術館、淡路人形座のほか、伊予市、神戸市の文化施設計画や文化政策にもかかわる。慶應義塾大学大学院アートマネジメントコース非常勤講師。著書に、『芝居小屋の二十世紀』(1999年、雄山閣)、『公共文化施設の歴史と展望』(2010年、晃洋書房)、『内子座』(2016年、学芸出版社)など。
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